具体的な生き方を考える事の難しさ

私はかなり教条的というか、たとえば教科書に書いてある事に対して深く具体的に考える事が苦手で、中身を考えずに字面だけ飲み込むような、そういう表面的な性格がかなり強いと自己分析しております。事実、会社でもよく注意される事でもあります。
抽象的な「キーワード」を目にした瞬間、それで考えるのを止めてしまう程度の頭とでも言いましょうか。自覚はしておりますので、確かな土台と具体性というのが私の課題だと思っています。(そして、これは改善される兆しが全く無い…。

さて、こんな増田を見かけました。
[今日も聖書を読む読む] 生きる意味
おそらく「聖書を読む読む」の増田兄弟による元増田へのご返信かと推察いたしました。


そこで今回、元増田氏ではなく読む読む増田兄弟の方にレスをしたいと考えました。と言いますのも「人間一般が生きる意味を聖書から受ける事」と「それを個人的な自分の生きる意味として抱く事」の、この間を渡すものが何であるか。それについて考えたいからです。また、それについての私の考えを聞いていただきたいと思い、このように筆を執る次第です。

最終的に聖書の言葉へ辿り着きたいと考えますが、それ以前に「生きる意味」を問われた時に「なぜ聖書に辿り着くか」を考えなくてはなりません。そして本来ならば人類一般へ向けた言葉で語られるべきなのでしょうが、私には恥ずかしながら自分の事しかわかりません。ですので主語を「私」とした場合、私がこのように受け取っているという意味で前提を述べる事といたします。


私が救われた経緯について過去にも書いた事がありますが、かつて私は「浅ましく罪ある自分でありながらも、救われるものなら救いなるものを受け取りたい」と考えました。
→それは「聖書に示された福音を信じる(つまり、神の遣わしたイエスによる愛と赦しを信じる)」事だと受け入れました。
→この事により、「基本的には聖書の全体を信じるものとして取り組む」ようになりました。
→従って、聖書の中に生きる意味を探すべきなので…
→その結果、聖書の言葉から自己の生きる意味を探すようにしたい、という順であり、理屈であります。


なので、生きる意味と言った時に聖書を引用します。それは闇雲に古典から引用を求めるのではありません。繰り返しますが、私個人の視点から出発した場合、まず救済の福音を示され、それを信じる事と聖書を信じる事がイコールであったので、結果として聖書から生き方を探るように位置づけられました。つまり土台は、神からの一方的な愛・恵み・恩寵としての救いの福音となります。だから聖書を持ち出すのです。
こうして聖書を読むべきだと先に定めたから、聖書の引用を「私の生きる意味」として結びつけられると考えます。あるいは、結びつけるべきだと、先に定めていました。
この「なぜ、わざわざ聖書なのか?」という前提条件が明示されないと、いきなり聖書が引用される事の意味が通じないのでは…と思ったので、先に記した次第です。


ここまでが長い前振り。続きまして、これは主に改革派教会に当てはまる事でありますが、ウェストミンスター大教理問答*1の問1を見てみると、ずばり「人生の目的」について示されています。

問1
人間のおもな、最高の目的は、何であるか


人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし*2、永遠に神を全く喜ぶことである*3

「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」第1コリント 10章31節(口語訳)

いきなり結論となりますが、私にとっては上記の引用箇所を目下の目標にしたいと考えます。というのも「何をする」「何になる」という行動や結果を目的にするのではなく、どのように現れるかは個人に示された道があるけれど、それが全て「神の栄光」に繋がるように生きる事を意識したり、優先するという、大きな基準だと思ったからです。

だから読む読む増田氏の増田を読んだ時に想像したのは、内村鑑三師はこの「神の栄光」のために著述をしたのだろうな、という勝手な連想です。

内村鑑三『後世への最大遺物』を読む。
⇒結論:金儲けや教育や物書きの才能がある人はそれで後世に遺産を残せる(そこに生きる意味がある)けど、そうでない人も、高潔な生涯を送ればそれ自体が後世への遺産になるんだよ。
⇒(泣)

◇『聖書』を読む。
⇒結論:人間は、信仰を通じて高潔な生涯を送り、神との関係を回復することに(この世を)生きる意味があるんだよ。

なるほど、読む読む増田氏は内村鑑三師の著作を通して、師の書き記したものに「神の栄光」を見たのかもしれない、だから聖書を読もうとされたのかと考えました。その上で、もう一つお聞きしたいと思いました。「神との関係を回復すること」とは、具体的にどのような状態にある事をお考えでしょうか?

もちろん意味がわからないとは申しません。イメージで言えば創造当初のような、アダムと神が直接に顔を合わせて語り合い、委ねて生きる事だと思います。また引用した部分の意味からすると、「信仰を通じて高潔な生涯を送り」に掛かっているようにも思えます。「高潔な生涯を送」ることが「神との関係を回復すること」とイコールなのでしょうか。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」エペソ2章10節(口語訳)

確かに、そのための備えまであると書かれています。実にアーメンだと思います。

けれど一方で「神との関係」とは、高潔な生涯によるものだけとは思いませんでした。それは聖書の中でも特に旧約聖書、たとえばダビデの生涯などに現れていると思います。彼は神との関係において、間違いなく聖書(イスラエル史)を代表する大人物のひとりです。けれど聖書は、ダビデの事を高潔だけの者とは書きませんでした。最も有名なところでバテシバへの姦淫とウリヤ殺しの首謀者ですらありました。それも現代的な「神を知る前の生活」的なビフォーアフターではありません。散々神に用いられて、王となった後の事であります。
では「神との関係回復」とは何でありましょうか。ダビデの例をそのまま引用すれば、日々犯してしまう罪への悔い改め(当時は贖罪の犠牲)が挙げられると思います。
また、私は結局「神との関係する事そのもの」だと思いました、非常にトートロジーというか、何も言ってないようではありますが…。
ですので、もう一つ聖書から参照しようと思います。

後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」主はその聖所、高い天から見渡し、大空から地上に目を注ぎ、捕われ人の呻きに耳を傾け、死に定められていた人々を解き放ってくださいました。シオンで主の御名を唱え、エルサレムで主を賛美するために諸国の民はひとつに集められ、主に仕えるためにすべての王国は集められます。(詩篇102:19-23)(新共同訳)

「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」」そうなのか! 21世紀と呼ばれる、遙か後の世の私たちにも書き残すのは、この事だったのか!「賛美をするため」という単純な言い方ですが、これが神との関係の手引きとなるかもしれません。

本当はこの「神」という存在に迫る為に、そもそも神は善なる方であり、そもそも人の救いと幸せを願っておられる存在だという前提条件についても書き加えられれば、だから関係すべき対象であるのだと言う話にも繋がるのですが、時間の関係で少し省かせてください。

けど最後に、もう一つ希望めいた事を引用させてください。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ 8章28節(口語訳)

「凡てのこと相働きて益となる」(文語訳)。共に働いて、すべて益となさしめて下さる希望があるのですから、私たちの捧げる犠牲や最善などはどこまで行っても所詮欠けのあるものだとして、それすらもご計画の中で召して、共に働いてくださる、そして益としてくださると、信じていきたいと思います。

何か、タイトルに掲げた具体性からは結局離れたままで申し訳ないです。

追記:また或いは「力を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」「自分を愛するように、隣人を愛せよ」を挙げる人もいるだろうな…とも思います。これも大切な生きる方向であり、また行動そのものは、人に託されているのだと思いました。

*1:ウェストミンスター信仰基準』(新教出版社.1994)

*2:ローマ11:36、1コリント10:31

*3:詩73:24-28、ヨハネ17:21-23

今日も返事書く書く

[今日も聖書を読む読む]

思った事

因果応報への徹底的すぎる否定と2.「そんなときは自然を見よう!神の偉大さが分かるし、自分が神の下僕でしかないことにも気づくはず」と書いてある、いわゆる「一般啓示」。
考えてみれば、ヨブ記に限らずこの世の誰にでも理解出来ない悲しみが襲ってくる。その時、この世の中で起こってしまう事に対して、原因を探る事が生きる事なのだろうか。私は逆に、この先もどうやって生きていけば良いのかを与えられたい。事後的な考え方かもしれないが、この世でどうしても起きてしまう悲しみに対して、むしろ悲しみの中にいる人に対してこそ神が必要で、神はいてくれると考えたい。
「良い人には良い事が、悪い人には悪い事が」と言ってしまうと、むしろ最も神を求めている悲しみの中にいる人に対して「あなたに原因がある」と、逆のものを提示してしまうかもしれない。それはねじれだ。この世界で起きてしまう事に対して、私たちがこれからも生きていく為に、神がいてくださるという原則に戻るためにヨブ記的なアプローチがあるのかもしれない、と思う。

「わたしは彼の祈りを受けいれることによって、あなたがたの愚かを罰することをしない」(ヨブ記42:8)

何より、罰する事が目的なのではなく、最終的には人が善い生き方に向かう事が、神の最終目的であると信じるし、何より罪を罰する清さと同時に罪をゆるす方であると信じます。

「いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」(出エジプト記34:7)

清さは譲らないけど、それに対して「ゆるす者」である本質は変わらないと思います。


(とはいえ、ヨブ記は本当に苦手で、全く自分の腹で理解しているとは言い難い……わからない…)

[今日も聖書を読む読む]

ロマ書の続き読んでたら、やっぱり信仰だけじゃだめらしい。いや良いんだけど、信仰してたら悪い行いとかまさかしないよねぇぇええみたいなプレッシャーを感じる。

こんな増田があったので、ブコメじゃ納まらなかったので、こちらで短く返信。
(関係ないけど「ロマ書」って言い回しが、ひょっとして文語訳…?と思ったり)

「いや良いんだけど、信仰してたら悪い行いとかまさかしないよねぇぇええみたいなプレッシャーを感じる。」
えぇ、仰る通り信仰だけで「良い」のです!
良いのですが……これもまた確かに仰る通り、その先のペテロ先生の口調が「だからこそ!」になってくのも、すごくわかります。

(前略)むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。
(ローマ人への手紙12章3節)

信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。
(ローマ人への手紙14章1〜3節)

とはいえ、「どのように生きるか」とは、その信仰が与えられた*1人ごとに、各自に与えられ、各自が向き合う問題であるので、良心に従って何かを奨める事は出来ても、遡って悔い改めや救いの否定が出来るわけではありません。どこまで行っても私たちは互いに人間なのですから。
ただパウロは何度か読んでると「ひょっとしたら人が良いのかな…?」と思う点、素直に「譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない」とか「主の命令を受けてはいないが……意見を述べよう」とか「わたしがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであて、あなたがたを束縛するためではない」とか、要は信仰と救済が成立する為の譲れない箇所と、教師としてのアドバイス・意見として言う箇所を、ちゃんと自覚して分けて書いてるところですよね。意外と「最低ラインよりギリギリ守れるなら、ここまでは譲歩」みたいに、永遠の生命に関わるかどうかを軸に、参考意見として残してくれてる…。



なお、プレッシャーは「ヤコブの手紙」著者、主の兄弟ヤコブの方が半端無い模様。

*1:同じ意味ながら「信じる人」ではなく「信仰が与えられた」と書いたのは、もちろん私自身が神を信じるのですが、その信仰とは私の内にも存在する三位一体の御霊によって私に示され、与えられた事を強調しました。「また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない(第1コリント12章3節)」

「kash06さんて、結局、仕事できないけど、まぁ不真面目ではないし悪い人じゃないから…」と赦されて生き延びたい

http://anond.hatelabo.jp/20160701225522を読んで勝手に思い出した事など。

b:id:cider_kondo さんは、たわば先輩

みんな、卒業しても絡んできそうな感じ、わかります!(失礼

2016/07/02 22:55

こんな事を書きましたが、自分自身もそれに近い性格をしてるんですよね。
実際、大学時代の自分は弱小な歴史研究サークルに所属していて、OBも気軽に遊びに来てくれるし自分たちもそれを期待してたので、きっと自分もそうなるだろうと最初から思っておりました。
ところが、実際に4年生になって気付いたのが、どうも自分の後輩達はそういうベッタリしたモードじゃなかったし、自分の先輩達に比べて自分はとても人に影響を残すタイプじゃなく、むしろ依存してる側だろうという事実。また自分の同級生は基本的には良いヤツだったけど、少しばかり先輩面や部屋を独占するような姿が目に付いたので、せめて自分がバランスを取ろうと4年の中盤になってからは就職活動を理由に、あからさまにサークルへ行く回数も時間も減らしたのでした。
自分は入学して2日目で早々に入部して、それ以来、大学とはサークルへ登校する事であり、その間にお勤めとして授業へ出向き、そしてサークルの部屋へ戻ってから帰宅するという、大学とサークルの部屋がイコールになる生活をしていたのですね。それだから、家を出てから直接大学の教室へ登校する生活をするのも初めてだったし(!?)、身を引くとはこういう事かと、随分、具体的に思ったのでした。

なんて書きつつ、もう一つ思い出した。高校の部活動ではテニスなぞしておったのですが、これも正式な「部」に昇格しない「同好会」扱いの集まりで、立ち上げた先輩や同級生とのんべんだらりと楽しくやっていたのですが、1年下の後輩が少しやる気になって、2年下はついに二桁を超える入部をしてしまって……。
あの、のんべんだらりとした空気、消えましたね。
2年生よりも下手な3年生として、のうのうと息抜きに行こうと思っていたのを諦め、受験にあたり成績が酷く不振な事を言い訳に勝手に出奔したのでした。……英語なぞ10段階の2だったので、言い訳どころか単なる事実でしたが。

話が遠回りしましたが、結局、誰よりも光画部に憧れてた張本人でありながら、やってのける事すら出来ない小心者だったのが私自身だったよという話であります。


あ、そういえば、中学の時の部活でも……(以下略

(あとこれは、「無能な先輩と有能な後輩」という関係までなら行けるけど、そこに新人が入ってくると、組織的な矛盾を生んでしまう事に精神とか欠片のようなプライドが耐えられなくなる問題なんだろうな、と今になって気が付きました。なお会社でも繰り返される模様。

めぐさんの「DUO」を買った話

こんなものを買いました。

DUO

DUO

「Stay」とかね、当時はCDを買うお金が無かったから、BoogieNightで掛かった時の録音テープを何度も何度も巻き戻しては聴いて憶えましたよ。歌詞が本当に素晴らしいんですよね!
転じてDisc2の女性Duet編ですが、本多さんに続き水谷優子さんまで若くして亡くなられましたね。その事が、本当に不思議でたまらない。20年前に、毎日のように遊びに行った友人Kの家で、何度も何度も聴かされたBoogieNightであり、Drinkであったのですが、それを懐かしむよりも早く訃報に接するとは思いも寄らなかったわけです。

「いやぁ、もうしばらくラジオを聴かなくなったし、自分なんてファンとは言えないよ」とか言いながら、やっぱり買って良かった。

久々の日記が、こんな話なのも残念だけど…
まとめよう、あつまろう - Togetterというまとめが、はてなでも話題になりました。
私、ブコメではこんな事を書いてますね。

他の宗教の信徒を神社で参拝させるという行為への違和感 神道の神を信仰する人はいないの? - Togetterまとめ

たとえどんなに今時の人たちが相互理解を探っているとはいえ「参拝」と「見学」の差は、果てしなくあり得ないほど遠い。逆に、キリスト教の聖餐に「参加」しようとしたら絶対に断られる。そういう聖なる領域はある。

2016/05/26 12:11

はてなブックマーク - 他の宗教の信徒を神社で参拝させるという行為への違和感 神道の神を信仰する人はいないの? - Togetterまとめ

あくまで見学については何も思わないし、私も葬儀であるなら最大限故人を尊重している。だが「あくまで自由に拝礼してもらう」と、スタイルが自由であっても拝礼に含まれてしまう重大さがはてブでも伝わらないのか!

2016/05/26 12:21

さて、今回は2つほど書きたい事がありまして。
そもそも、まとめの発端となった記事についてと、はてブの反応についてです。

報道における「参拝」と「訪問」について

【伊勢志摩サミット】G7首脳、伝統体現する「御垣内参拝」で伊勢神宮訪問 「正式参拝」精神性触れる場に 安倍首相は個別で参拝も(1/2ページ) - 産経ニュース
G7首脳、伝統体現する「御垣内参拝」で伊勢神宮訪問 「正式参拝」精神性触れる場に 安倍首相は個別で参拝も」というタイトルにある通り、記事だけを読むと「参拝」「拝礼」にこだわっているようです。
【伊勢志摩サミット】25日にも日米首脳会談 26日にはG7首脳がそろって伊勢神宮参拝 - 産経ニュース
同じく産経13日の記事も「25日にも日米首脳会談 26日にはG7首脳がそろって伊勢神宮参拝」と参拝であると報じていますね。
ここが一番の論点ですが、特定の宗教の形で「参拝」を組み込んでしまうとは、あまりに強引ではないかというのが最初の着火点であり、私の着目点でした。ブコメもそれに準じた形で、とにかく「見学ならわかるけど、拝礼してもらうという表現に含まれるのは本当によろしくない」と繰り返しました。

そして当日の報道ですが…
http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000959/20160526-OYT1T50158.html
G7首脳が伊勢神宮訪問」
http://www.asahi.com/articles/ASJ5W6420J5WOIPE02H.html
オバマ米大統領が26日に訪問した際の記帳の内容を仮訳とともに公表した」
【伊勢志摩サミット・フォト特集】伊勢神宮にオバマやメルケルら首脳陣がずらり勢ぞろい あのファーストレディーも… - 産経ニュース
三重県伊勢市伊勢神宮をそろって訪問した。」「首脳らと内宮の境内を歩いて回った。」

参拝してないですよね、訪問ですよね?

それから伊勢神宮の発表
伊勢志摩サミットに伴うG7神宮表敬について|お知らせ|伊勢神宮
「御神前では首脳各位が御垣内みかきうちに進まれ、我が国の伝統にそった形で表敬いただいた」
やはり、御垣内まで「進まれ」たけど「表敬」したと書いてます。

それもそのはず…
各国首脳ら伊勢神宮に集合−毎日新聞
「主要国首脳会議に参加した各国首脳らは26日午前、討議を前に伊勢神宮を訪れた。政教分離原則に配慮し、参拝ではなく訪問の形をとった。」




明確に、参拝じゃないって決めてあるじゃないですかーー!




参拝ではないように手を回したり、当の伊勢神宮も気を付けて「表敬」と表現しているところ、直前の25日まで参拝の方向で報道しているのは、どうなんだろうと思ったり。
【伊勢志摩サミット】G7首脳、伝統体現する「御垣内参拝」で伊勢神宮訪問 「正式参拝」精神性触れる場に 安倍首相は個別で参拝も(1/2ページ) - 産経ニュース
「正式参拝の「御垣内参拝(みかきうちさんぱい)」で内宮に参拝する方向で各国と最終調整していることが24日、分かった。」
それとも、最終調整の内容が本当に参拝だったのだろうか。そうであるなら、さすがに「それはしてはいけない」と思います。

結局、この件では参拝は行われなかったので、まとめにあるような懸念は「起きてない」という認識で最終的には決着だと思います。ですが、まぁ、今回の件で言うと日本政府に対する懸念が巻き起こった原因のうち、半分くらいは一紙の報道のせいなんじゃないかな…とも思ったり。

はてブでの反応

上で述べた通り「参拝」として巻き込むのか、「見学、表敬訪問」なのか、その違いが一番のポイントだと考えました。ですので、訪問先が伊勢神宮である事について、政治的な反応はそれぞれあるでしょうが(たとえばhttp://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000959/20160527-OYT1T50021.html)、宗教的には訪問する事すらいけないとは思いませんでした。

ですが、たとえばクリスチャンにとっての十戒の例を出すまでもなく、他宗教で神と奉じるものを拝む行為に自身も加わる事を、そうそう認められない事の方が多いのではないでしょうか。何度も繰り返しますが、自ら拝する行為と、見学の違いは確実にあります。

今回、まず驚いたのは大元のまとめのタイトルが、「参拝させて、神社はいいのか」という方向で。いや、それを問うなら、参拝させられる方の事も気に掛けようよ…というか、元tweetはそういう懸念をしてたのに、なぜ、そのタイトル……。(そして、はてブの感想もタイトルに対しての呼びかけと、中のツイートに対する呼びかけが混ざっていく

そしてはてブの反応で戸惑ったのは、「〜〜も訪問している」とか「神社の方は気にしてないから大丈夫だよ」という声が、意外にも多かった事。確かに訪問する事、敬意をもって表敬する事は大切な事だと思います。外交上でも。ただ今回の報道は、そこを「参拝する方向で最終調整」なんてしてるから私は宗教的な引っ掛かりを覚えたのですが……でも、考えてみれば日常で神社へ参拝すると言っても「見に行く」程度の軽いニュアンスで使ってる事の方が多いですもんね。日常語として口に出す「参拝」の軽いニュアンスと、特別に宗教的な背景を気にしながら「参拝」の文字を読むのでは、背景が違うから意味の重みが違うというのも、なんとなく理解できます。

もちろん、ブクマでも「訪問する」が「参拝しない」だろうという外交上の配慮を読み取ったコメントはいくつもあり、私もそうした中の一人のつもりです。
その上で、もう一つ「宗教の相互理解」についてですが、当然、同じ法則ですよね。訪問するけど参拝はしない。理解はするけど同一化しない。
いくつかカトリックの聖体拝領を引用してるブクマがありましたが、距離感としては近い話ですね。カトリックでは聖体拝領・プロテスタントでは聖餐式(主の晩餐式)と呼ばれる式があり、キリストを記念する為にパンと杯をいただく事をします。(コリント人への第一の手紙11章23〜26節より)
聖体拝領式では「カトリックの信徒」であればパンを頂きますが、そうでない人は見学(もしくは祝福を受ける)に留められます。根拠等々まで遡ると今日のところは冗長になるので、そういう事だと思ってください。
プロテスタントの私は、そこで敬意を以て見学しますがパンには預からないわけです。私たちがするのはそこまでであって、それ以上を「やっていいじゃん」の雰囲気だけでは、渡れないわけです。

そして最後に思うのが、線引きをどこに置くのかは個人の良心であり、個人の信仰心であるので、誰がどうしたから全員そうするべきとは言わない方がいいという事。たとえば、私は葬儀に関しては故人を最大限に尊重する一環として、その宗教のスタイルに従う事もするのですが、私と同じクリスチャンの人でも中には考えに考えて、焼香が始まる前に丁寧にご挨拶に伺う人、落ち着いた頃に挨拶される人など、様々な考えがあります。それは、その人が神との対話の中でそう結論を出した事であり、同じ宗教であっても他人である私がどうこう言うものではありません。
ですので、「知り合いのクリスチャンは〜〜してたのに」「あの寺の住職は理解あるのに」と、ハードルの高さ低さに関係なく、一律な基準を振り回すのはなるべく慎みたいと考えるところです。考え方と行動と、この辺りは色んな取り合わせがあるのですから。

2010年代も半分終わって…

割と荒っぽい雑感。
気が付いたら増田に、恋愛に対する渇望ネタが増えた気がして。曰く「交際したい」と。その話題自体は人類昔から変わらないって事でいいのかもしれないけど、自分が知っている2000年以降のインターネットでの話題として捉えた場合、「人から蔑まれない程度の服装がわからないから、教えてくれ。だけど怖い。だが、このままでは辛い。マニュアルをくれ!」の時代から考えれば、ものすごく未来に来たなぁ…と思って。
少し気になるのは、いわゆる「脱オタファッション*1」世代が次の課題として言っているのか、それとも最初から諸々クリアしたような次世代たちが新たな壁として言っているのか。
どちらにせよ、悩みとしては大きなものらしい。出来る事なら「当面の問題ではあるが、人生の最終目的ではないし、人間そのものへの評価ではない」くらいの客観視というか、突き放しが出来れば良いのだけれど…。

*1:私自身はこの呼称があまり好きではない。当時もあまり使わなかった。なぜなら、オタクを脱するつもりがなかったからだ。そうではなく、ぬくぬくと趣味を温存するために、我々は隠れる事を目指したのだ。(しかし、もはやゲームもアイドルもそれ自体が迫害の烙印とならなくなってしまった…