えい、ネモさんをご招待。(てか、明日仕事だから、寝れや自分)
都内の中心で愛をとりもどせ!!
もはや勢いだけの日付ネタ。
ふと思ったのですが、blog形式でベタベタな身近向け日記を書いてるのって、うっかりするとモヒカン族に狩られるんじゃないかって。情報伝達・発信・交換の為のツールであるのに、日記としてエントリーを書いてしまうと、たとえば全く別の属性にあたる記事を1つのエントリーに入れ込んでしまい、情報を取り出せる利点が大幅になくなってしまうとか。特にはてなにおける情報の繋がりやすさが、逆に、情報系(?)な人たちからすればベタな日記が絡みつくことで、非常にノイズが増えてストレスが掛かるみたいな感じかもしれませんし。うっかり自動リンクとか。まして「うなずきトラバ」なんてした日には、無駄に尖ったショルダーアーマーでアメリカンバイクにまたがるモヒカン達が「ヒャーーーヒャッヒャッヒャ!」なことに……
…なんてことを、地下鉄に乗りながら考えてガクガクブルブルしてました。
せっかくなので、ムラビト認定されたダメ人間から
ムラ社会宣言というのが出されてました。
基本的には、モヒカン宣言の裏*1として書かれたモノのようで、必ずしも「ムラ社会」側の視点から書き起こされたワケでなく、単にモヒカンの逆を書いてる感じなのでしょうか?
少し話が飛びますが*2、ムラ社会論で戸惑いを感じるのは、「ネット上」でムラ社会人と目される私が、「リアル」においては「社会のルール」になりきれない「個人主義はびこる若者」と目されてしまうような、それに似たねじれ感。
先程の「ムラ社会宣言」に戻りますと、
共有
あなたのものはあなたのもの。わたしのものはわたしのもの。人のものに口を出すのは恐ろしい人です。
という考えは、まさにネットムラ社会な私の考え。しかし、リアルムラ社会からは際限なく同一化のうねりが押し寄せ、それは我々を飲み込もうと欲しているんじゃないかと思います。いや、所詮は印象論なので有効なソースはないのですが…。
あと、これもまた極々個人的な思いですが
間違いを指摘することはその人の人格を攻撃することである。また、真に誤りを犯した場合、どんな謝罪を行っても許されるものではない
と、ムラ社会=間違いの指摘が攻撃になるので、絶対にしない、という解釈ですが、実際のところはもう少し弾力的な活用というか、「間違いを指摘する時は、相手を傷つけないように全力をもって配慮しながら、なるべく柔らかい言葉を用いて、必要ならば^^と笑顔でも作って、遺恨のないように、そっと触れろ」くらいじゃないかと思います。…まぁ、確かに自分が指摘するのが恐くて「誰かが教えてあげたり、自分で気づいてくれるように、影ながら祈る」という手段の方が多い気もしてきました。…やっぱり、触れてないのと同じじゃないか?
もう1つ。
差異
お互いの差異は努力で埋めることが出来ます。自分が良いと思ったことを積極的に人に対して行いましょう。
ワリとマッチョなムラビトだと思われます。この文は何故かリアルムラビトに近い気が。互いに触らず平和主義なひ弱系ネットムラビトからすれば「お互いの差違は自分の力じゃ決して埋まらないので、多文化主義の語を隠れ蓑に表面上の平和を装いましょう。議論によって落とし所を探る事など全くの無駄です。」になりそうな気がします。極端を言えば、ですけどね。
などと色々言いましたが、結局は何の裏付けもない主観だけで、ごめんなさい。(とりあえず全世界に向かって)
あれ…ムラ社会というより孤立じゃないのか、私は?
shaoshaoの日記 より モヒカン族
私の上のエントリーとは真逆な御意見ですが、一目瞭然、あちらの方が筋が通っていらっしゃる。たしかに、同じ点がキーワード的に食い違ってる気がしましたが、「ムラ社会」を前提にするなら、私が先程書いた案はまるで逆の方向に向いてしまいますね。
……となると、既にモヒカン族ともムラ社会とも異なり、またネタへの食いつきという点では、イロコイ族とも正反対な私は一体、何だと言うのだろう。いや、だからといって「自分って人とちょっと違うんですよー、あははー」みたいな痛いことは思ってないですよ、流石に。
むしろ、(おそらく)大勢いると思われるごく平凡な、孤立的平和原理主義者たちは一体…と。空回った「つながり感」だけ抱えて、しかし積極的なヲッチャーにも、能動的な発言者にも、差違を埋めようとする社会主義者*1にもなれない者は、ネット上であっても存在としてはカウントしづらい…というか、名を与え束ねる必要性もないのかもしれないですね*2。