多分、正しく欲望を広げれば普通になれる気がしたんですが、どうも、この方向は違う気がしてきました。
上を見ても下を見てもキリがないのは、なるほど、確かにその通りで、そんな言葉をいただいただけでも暖かくてたまらないのですが。この週末からさっきまで、ずっと考え続けてどうしても抜け出せなかったのは、私が私として大丈夫だとか、そんなモノを今望んでるんじゃなかった事で、もう混然と溶けてしまいたいのです。自分は自分だから大丈夫じゃなくて、自分でもなく誰かでもなく全てになりたいんです。「誰か」と1つになるとかじゃなくて、誰でもあり誰でもなくなりたいのです。それでいながら、自分はみんなの事をまなざしてるし、みんなは自分のことをまなざしてるし、だけどそんな主客があんまり意味をなさないような状態でありたいのです。圧倒的な加害者として憎悪しながら、同時に被対象として圧倒的な自己憐憫を燃やしたいのです。誰もが誰をも規制できないという意味では究極にアナーキーでありたいし、誰の間にも何らの違いがないという意味では究極にファシズムでありたいし、そもそも誰も彼もないので己が独裁者であると同時に大衆そのものでもありたい。
まぁ、セカイ系というか、何度も繰り返すように人類補完論者。
でもやっぱりセカイ系でありつつも、あの「僕と君=セカイ」ってのはいただけない。具体的には「僕と君」ってのがいけない。というかわからない。
自分は、二人称的な感覚について少し欠陥があると思っていて、「君」なんてものは、『「僕」の中に生まれた<僕>が便宜上、一人二役をする道具』かもしれないし、それですらないかもしれない。他の人にはリアルに持ってる概念かもしれないけど。
そういうワケで、また何度も繰り返しになるのですが、エヴァの最終は人類を補完するべきだったと思ってる。TV版のように、自意識をハッピーな方向にねじって内的に幸せというのは、悪くはないけど、次善の策だと思う。それが出来るのはよほど意思が強いか妄想力があるか、本当にこの世との交信が途絶える肉体の死の時だと思うから。劇場版は本当に絶望的だ。なぜ他者など望んでしまうんだ。いや、それが絶望なんじゃなくて、本当に補完が実現できるとしても、もしかすると、私も土壇場であのように「誰か」を「他者」として求めてしまうかもしれないという、自分の薄っぺらい期待感というか、何というか。いや、「行動の伴わないヌル馬鹿ファンダメンタルの端くれ」としてはわかる気はする。「ひとが一人でいるのは良くない」と、アダムの骨からエヴァが創られたのと同じで、1つにもなれないし、一人にもなれない。だけど、自分には他者がきっといない。自分以外の「他者の人格そのもの」と出会うこともきっと出来ないし、自分の中で「他者のようなダミー」をエミュレートすることも、どうにも適わない。
人はそれを「未熟」と呼ぶかもしれないけど、成長という言葉を信じてないので、永遠に「非完」とでも呼ぶしかない。人が、言葉を発したり、行動したり、或いは具体的な出力を伴わない「しぐさ」や「ただ存在する事」でもいいけど、それら全てが「ある存在から何らかの意味が発生する事」だとしても、そこで歴史上ただ一度、客観的に起こった事実を、私は正しく「観測」できず、正しく「処理」できず、正しく「反応」できず、その反応を正しく「出力」することもできず、「自分が出力した反応すら正しく観測できず」、だから、自分が本当に在るのかも疑わしいのです。だからこそ、もう「自分」という形にこだわらず、変な話、「存在する」という方法にもこだわらず、しかし「存在でありたい」。だけど、その存在が「自分」である必要もないのだから、それは既に何であろうか。

…その答えは、人の原罪じゃないのか?