宛先が誰になるのかを明確に想定しない日記を書き流す、という行為。

これは結局のところ、何なのだろう?

これが、ある特定の事物に関する記事というならば、まだ、わかる。映画や音楽やら各種コンテンツの評価感想、時事的な話題。

でも、純粋に日記って…それも、ど一般人の。民間の方の(独身会用語)。

メールでも手紙でもなく、誰にも宛ててない、日記。

メッセージのようで違うし、当然、日記文学を目指してるわけはない。土佐でもなければ十六夜でもない。

でも、粗末な内容に反してコミュニケーション期待は過剰に盛り込んでる気はする。


ところで、コミュニケーションの共通土台が失われてから(そもそも土台とやらが成立してた時代を知らないので、どのくらい汎用性のある、確かなものだったか、も、お話としてしか認識できないが)、各個人を「属性」で語るようになったとか、ならないとか。

代表的な例として、野球の話が、かつては共通言語だったのが、今は単なる野球属性君みたいな感じらしい。確かに、野球なんて知らなくても普通だ。
(なら何で昨日の書き出しが岩瀬の登板ペースなんだ!)

でも、それはかつて「目に見えるもの」ではなかったから不便だったわけで。
これが「×ほのお」って書いてあれば「そっかー、せんせいは火に弱いんだね」ってことになるじゃないですか。ばりさんは眼鏡に弱いのかぁ、とか。ひのえうまの貴女はアレだから出生率が激減とか(昭和って、土着的な言い伝えが、大衆メディアのカタパルトを通しても生々しく生き残ってたのかと、改めて驚かされるエピソードだよね、ひのえうま)。

あ、で。
超絶に遠回りしたけど。

SNSのウケたとこって、コミュニティで属性を可視的に飾れるところも、きっとあったと思いまし。すると、その「場」においては、何となく繋がれるよね。

オタク、サブカルの基礎教養問題でややこしいのはアイデンティティ問題と、歴史性問題(付随して、前世代である俺を認めろ問題)、そして縦横の繋がりが出来る出来ないのコミュニケーション問題だろうから、ってほどに。


そこで思った!(長い

日記って、細かいカスタマイズが出来る、究極な属性射出装置なんじゃ?

ごめん、なんかキバヤシっぽいけど…それはさておいて。

とまでメールで書いて、これはさすがにmixiで戯れる文章じゃないなと思って、途中で取り消した。