一言で言えば「信頼できそうだと選択した」

聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。 - カッコつけるのは、もうヤメだ。ダラダラと生存報告。(仮)の続き。

前回は主に会ったこともないお方をどうして信じられるのだろうに対する返信として書きました。元増田はまさにタイトルの通り「会ったこともないお方をどうして信じられるのだろう」という点を不思議に感じているのだと思いました。
それに対する私の答えは大まかに「存在を知る事や実在性を信じる事よりも、彼を信頼する事こそを『信じる』と呼んでいる」というものでした。この信頼とは「神が善なる存在である」「その善から外れた(罪)全ての人間がイエスを通して赦される用意がされている」事に対する信頼です。つまり「私たちは誰もがイエスによって救済されうるという信頼」を、信じると呼んでいる面があるという事です。

昨日はここで時間切れとなってしまいましたが、今日も私の個人的な感想を書いてみたいと思います。これは個人的な経験と感想です。宗教学的な観点も無いし、キリスト教的な立場からの教義の説明にすら満たない、極めて個別具体的な感想であり、取るに足らない1ケースであると思ってください。
なお私の背景としては、キリスト教とは全く縁のない一般的な家庭に生まれ育ち、なぜかキリスト教徒になったプロテスタントの一信徒です。

さて、元増田のもっと根本に近い質問はこちらなのではないかと思いました。

おそらく彼らは個々人のやり方でイエス・キリストを信じる強い根拠を手に入れたからこそ、キリスト教徒でいられるのではないかと思う。私はその個々人がその強い根拠を得て、信じることができた、その人が真にキリスト者になれた過程を知りたい。

元増田がこれを書いた時点での考えに即して読むならば、「正確なイメージをする事が出来ない歴史的な人物に対して、実際に信じているという人は、どのような根拠によってその信じる心境に至れたのか、過程を知りたい」という事になるかと思います。
私の前回の回答に即し、信じるという言葉に信頼という意味を加味すると、この質問は「(具体的なイメージの有無は別として)何故、あなたはイエスをキリスト(救い主)として信頼しようと思ったのか」になるのでしょうか。
この時点で半分くらいの回答になっているかもしれません。つまり捉え方の力点が変化しました。具体的なイメージを伴わないにしても、人物像が外れていたとしても、自分を救いうる方だと信頼するかどうかがポイントなのかな、という点です。

そして残りの半分くらい「過程を知りたい」にも、個人的な経験を書きたいと思います。

信じるとはどういう行為なんだろう
では、まず元増田の続編を確認しておきたいと思います。

そもそも信じるということは自明ではないものを真だとみなしてみる行為なのだ。はてブでは数名の方がAmazonで商品を注文することや通貨の価値を信じる例を挙げられていたが、生活をおくる上で直接出会ったことのない人との取引や自明ではない価値を信用するという行為は必要不可欠な行為である。つまり、信じるという行為は生存する上で誰もが行っている行為ということができる。

実はこの時点で「信じる」の中身に「信用」という意味が加わってましたね。
(語学や経済に強い方ならきっと「Credit」の語源「Credo」に信仰という意味があり…という話に繋げられるのかもしれませんが、私にはちょっと手に負いかねるので止めておきます。)

元増田はこのように例示されています。

ひとつは、そもそもそれを信じるということがその人の生活を支える基盤となっているかどうかである。キリスト教の家庭に生まれて子供の頃からイエスをキリストだと信じることが当たり前だと考えているキリスト教徒がこれにあてはまる。地動説といった科学的学説にしても、それを真とする社会に生きているがために、検証したことはないけれども真だとみなしている。

キリスト教の家庭に生まれて、キリスト教的な考え方が当たり前になっていたとしても、実は「イエスが自分を救うと、極めて個人的に信頼している」かどうかは、また別なようです。まさに、ここに「生活的な事情」と「信仰」の違いがあるのではないでしょうか。

なお科学的学説については、暫定的な仮説を積み上げて現実を説明しようとしている一連の働きだと思うので、「検証したことはないけれども」というより「誰か専門家の検証そのものを信頼している」で説明がつくかなと思いました。
また貨幣については、実際に目の前で交換も出来るし、交換できる現実に即して価値も変動しているので(だからデフレもインフレもある)、こちらは現実先行型なのかな、と。

少し前に戻りますが

自明ではないものを真だとみなすことが信じるということなのだとして、あるものを信じてあるものを信じないという区分けはいかにして行われるのか、人は何を判断基準として信じるという行為を為すのかという疑問にいたる。

何について信じるか、という観点が加わるかも知れません。
私はいま椅子に座ってこの文章を書いていますが、私を支えるという効果については信頼しています。また、荷物を置く、乱闘時に殴る、隕石落下によりサバイバル社会と化してしまった近未来日本で薪の代わりに火にくべる程度の効用についても信頼してます。
ですが、私の罪を赦すという面については別に信頼していません。
自明でないもの…論や価値についても、ある使い道については信頼も出来るし、検証によっては信頼できないかと思いますが、同じく救済には関係ないと思っています。
そして、もしイエスについて考えるのならば、それが自分にとって「自分の罪をそこに預けてしまおう」と思えるかどうかを基準にしてはいかがでしょうか?


そして、私の個人的な経験を最後に。
私が最初に思ったのは「自分が罪深い考えを持っているのは、きっと本当だ」という出発点でした。そしてターニングポイントになったのは「自分はまだ神を信じる心境がわからないし、当然、そこに到っていないけれど、自分の罪を持ち続けるより預けられるというのなら、それをしてしまいたいなぁ」と考え、そこからある程度時間が経った頃にふと表明した事でした。
「信じている心境に到っている」かどうかより、「これからその方向で行きたい」という頭の方で考えた選択から始まったのだと思います。

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである(ローマ人への手紙 9:9-10)

なお、自分の選択をキリスト教的にも後ろ盾してくれるかな…と思ったのは、聖書のこの箇所でした。

既に信じるための環境が用意されている中で、主体的に選ぶこともなく信じるということは、本当に神を信じるということ、イエスをキリストだと信じるということになるのか。

鋭いご質問ですが、私はむしろ主体的な選択の中に最も信仰が現れたのではないかと思います。

では、どうして何故そのように「信頼してみようかな」という選択をする気持ちになったのか、根拠がどこなのか……ともう一段掘ってみますと…。もはや堂々巡りですが、そのように受け入れられたからです。この点は、私の残念な知識では、このようにこの身に起こったのです、としか言えません。

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。(伝道の書3:1)

この辺りはfinalventさんの記事の方が、うまく日本語になっているので、私から申し上げられる事は以上であります。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2014/08/post-9dc8.html

まさに生きているサイドの私にとっては死をまたげないので、その分限を超えて出会えたというか、今の立ち位置から動けなくても方向だけでも向き直せるならば、そこが始まりなんじゃないでしょうか。遅すぎる事もないし、早すぎる事もないと思います。