「神・罪・救い」のアジェンダと、言及いただいた二分法について

恥ずかしながら、このように言及を頂いておりました。
「完全なる神と不完全な人間」という二分法が、我々の心を楽にしてくれることがあるんじゃないかと思った - しいたげられたしいたけ
わたし、本当は大したことのない単なる臆病者なんですけど、折角ですからお言葉はありがたくいただきまして…。

で、こんなコメントを返しました。

「完全なる神と不完全な人間」という二分法が、我々の心を楽にしてくれることがあるんじゃないかと思った - しいたげられたしいたけ

面白い話になりそうだと油断していたら、中盤が完全に自分の事で、鳩が豆鉄砲的な照れが…。前回は神の前に人は平等である事が論旨でしたが、そこから仲保者キリストによる神と人の和解をひな形に何か考えてみます。

2016/01/17 21:38


以前のレスだけですと「神と人の断絶」という話だけで終わってしまい、「仲保者キリストによる神と人の和解」の話をすっかり書いていませんでした。ですので、今回はフォローとしてダイアリを更新せねばと感じたところです。

そこで一度、私の理解の棚卸しとして、キリスト教の核である、神・罪・救いを通しで書いてみたいと思います。増田から端を発したやり取りの答えというより、一度、切り離された個人のまとめとして書き連ねてみたいと思います。

なお本来的には、これらを教える原点は全て「聖書」であるため、その聖書とは何であるかから証言するべきなのですが、ここはまるっと「キリスト教プロテスタントの世界観」として括弧書きで読んでいただければ幸いです。また、全て根拠となる聖書箇所とセットで出すべきなのですが、今は勢いで書いて、もし情熱があれば後から補足したいと思います。※でも、これは要出典という原則からいくと、かなりギリギリアウトな事をしているのかもしれない。

神について

  • 神はただひとり
    • そして3つの在り方がある。「父なる神」「子たるイエス・キリスト」「人々に宿る聖霊」の3つは、在り方は違うが同時に唯一の神そのもの
  • 天地の創造主
  • 全能であり全知
  • 究極的には「善」であり「愛」である存在
    • 厳密であるとか厳しいというイメージがあるが、悪意は一切持たず、善そのものであり、愛をもって基本的には人を救いたいと思っている
  • 公平であり、罪とは相容れる事が決してない

単に超自然的で、超人間的な存在を「神」と言い表しているのではなく、具体的で人格をお持ちの存在として、いわば大文字の神が存在されると信じています。

人と罪について

人間についての理解を書きたいと思いますが、後半、切っても切り離せないのが人の原罪についてです

  • 人は、神のかたちとして創造された
  • 創造された姿は「よい」ものであった
  • そして自由意思を与えられていた
  • しかし人は神に対する罪を犯したため、罪に堕落した
  • この罪とは、神の制定した正しさから外れたこと
  • そして罪を犯したアダム・エヴァ当人だけではなく、彼らから通常生まれる人類全てがこの罪の性質を持つ事となった
  • 罪がもたらす結果とは、義なる神と引き離されて、滅びること

社会的道徳的な善悪ではなく、神(=善)に背くことそのものが、罪と呼ばれました。
それは神が善であり、その善なる神が定める正しさとは違う方向に向く事、というか拒否と否定だと理解しています。
(ですが「罪の結実としての道徳的悪」への自覚が、遡って原罪への自覚のきっかけになる事も多いと思いますし、私もそうでした

救い、和解について

  • 罪によって滅びにおかれた人が、自分で自分を救う事はできない
  • 神は聖い方で罪そのものは嫌われるが、しかし同時に愛であるため人を救おうと考えている
  • そのため、罪の清めのために救済を計画された
  • 人間の罪の身代わりとして、罪を知らない方を犠牲とする事で贖われる
  • 神は自身の子を完全な人間として、罪の贖いのために遣わした
    • 生まれた子こそイエス・キリストである
    • 受肉したキリストは、肉体を持ち、普通の人と同じように人間の弱さを知っていたが、罪の誘惑に陥らなかった
    • 真に神の子であり、真に人であった
  • キリストは、全ての人の罪の贖いのために、死んで甦った
    • これにより人の罪は全く「赦された」
    • 相変わらず人は不完全であり、神の完全さとは遠いが、キリスト・イエスを通して罪の赦しにおいて神の和解を得る事が出来た

人と神が罪によって断絶されただけで終わったとは考えません。神自らが送ったイエス・キリストの死による贖いによって、人は神との和解を受ける事が出来ました

人の肉体に宿る御霊

  • 先ほど挙げた通り、神の在り方のもう一つは「聖霊
  • 聖霊は人間に宿り、人間に働きかける
  • 聖霊の働きかけによって、人間は罪を自覚する
  • 人間は自分の力によって罪を悔い改めて信仰するのではなく、聖霊の働きによって悔い改めに導かれる

さらには、聖霊なる神が人間に宿っています。人間は自分の力により信仰したり、自分の力によって和解を勝ち取る必要はなく、またやろうとしても行えません。聖霊の働きが先に行われて、それを受け取る事で神を信頼する事が出来るようになります。

最後に、神への応答

  • 私たちは単に「赦された」「一方的に罪を忘れてもらった」だけの者である
  • けれど、赦された「先の生き方」として、キリストを手本として彼に倣うようにありたいと私は願う
  • たとえばそれが兄弟愛
    • 救われたものだからこそ、神の前に互いに等しく、互いに愛を示す
    • しかし人間だからこそ、神の前に互いに等しく罪の根をもっており、お互い様
    • けれども、罪そのものは許容や妥協をする対象ではない

そう、「完全なる神と不完全な人間」という対置の中で、それでも私たちは受肉されたキリストを手本とするという「新たな選択」が示されたと考えます。これは二分法そのものから抜け出したワケではありませんが、不完全で終了ではなく、自分自身の力や努力ではない全く神の恵みと計画により来る世では完成されるのだろうなと思うのです。

私の中のkash06さん
http://anond.hatelabo.jp/20151009002102
ここから先は、一歩も二歩も踏み込んでしまうので、外していたら宜しくないな…と思いつつ、書きます。
先の両増田に現れるような「ウチとソト」「上と下」という感覚の違いや、あるいは相手の立場を読み違える原因はあるのでしょうか? 人として互いに等しいという前提条件を心から土台に据えた上で、「それでも人間の限界をわきまえる」ようなキリスト教徒的な世界観。ここが共有されていないと「人間の限界や領分を戒める自省・自制」の筈の言論が、まるで他者を糾弾するように見えたり、あるいはウチを見下げてソトを利するように思われるのかもしれません。
しかしそれだけではなく、実際我々は不完全な人間であるが故に、中には本当にウチの攻撃になりかねなかったり、自省が過ぎて他者を縛る事も日常的に起こしてしまっているのではないでしょうか。
結局は、常にケース・バイ・ケースで事を見つめて、何を論じているのか、属している宗教についての対話なのか、それとも個人が帯びている政治性についてなのか、知識に関する情報のやり取りなのか、一緒に混ぜないで対話をするしかないと思います。

(そして極々個人的な感想ではあるのですが、平等でフラットな言論空間なら冷静な見極めが出来るのかといえば、私は必ずしもそうは思わず、むしろ「普段ならじっくりなんて読まない話だけど、知り合いの○○さんの手前、ちっとは耳を傾けてみようか」みたいな現実的な抑止力の方が、むしろ歯止めになる事もあるのが人間社会なのかもしれないとも思うのです。しかし、それを言ってしまうなら、なぜ私は本名を隠しkash06を名乗って、このWeb空間でこんな事を書いているのだろうか。いや、書き残す事に個人的な価値と満足を感じているだけですよ。