宗教ができる事と、信者ができる事と、神ができる事

anond.hatelabo.jp

宗教は、コロナウイルスに対して何ができるのか

これは消極的な捉え方かもしれませんが、たとえ信仰によるものでも私の行いそのものは代替可能な活動でしかなく、今や、渦中にある方にとって何か祈りをぶつけられる先の存在、当事者の祈りが主題かもしれません。

2020/04/21 14:29
b.hatena.ne.jp


一般的に「宗教は」という問いを設けられた増田ですが、私が個人的に考えた事を書きたいと思います。
私個人の立場を明かせばプロテスタントのクリスチャンとなりますが、学浅く、間違いもあれば、何の代表でもなく一個人の信徒として見てください。

増田と同じ時を過ごす者として今思うのは「神ができる事」「宗教ができる事」「信者ができる事」に、違いがあるのではないか、という事です。


最も等身大なものは「信者にできる事」だと考えます。ある人は今の時代にあって何か非常に献身的な働きをされるでしょうし、また医療か介護などの専門職として技術を用いて働く人もあるでしょう。
個人的にできる事があるならば、それは素晴らしい事だと思います。しかし同時に、私たち自身は人間です。できる事とは人間の範囲の内ですし、行いの結果は他の誰かに代替できるでしょう。
行いの宗教的な意味づけはそれぞれの宗教ごとに持っているかと思いますが、人間にできる事の限界を思うと、一般人でしかない私は医療関係者や行政の担当者に頭の下がる思いを持って自分を守る事しかできない…。
専門的な効果を発揮したいのならば、それは専門家としての技術が必要だという事になります。

しかし、何かを行う動機に火をつける一面が宗教にはあると思います。これは人間の中に存在する社会的な概念としての宗教が持っている特性です。現実世界で人間が、その限界の中で行っているところの、宗教です。
社会的な宗教ができる事は、私が思いつくのは、信者に動機を与えたり、共同体を保ったりする事あたりが浮かびます。これもまた素晴らしい結果を残すこともありますが、人類が思い描ける、認識できる範囲という限界があるものだと思っています。

そして最後に「神ができる事」とは、人間の想定を超えた人間が左右できない領域に、それでも神を置く事が出来るのではないかという、希望と約束だと考えます。
増田の真摯な願いであるところの「悲しみや苦しみを持つ人々に」できる事。信者ができる限界はひとりの人間としての限界ですし、社会的な宗教ができる限界は多くのブクマが指摘するような「精神的な」「内面の」効果だと思います。
いま苦しみに直面している当事者を主語にした時、当事者が嘆く、叫ぶ、祈る、希望を願う対象になり得る存在として、引き受けられるのは、「神ができる事」だと考えました。

まとめてしまうと、人にできる事、宗教にできる事は、人間社会が行える限界まで。そこから先は、当事者と神との関係でできる事ではないでしょうか。
……いや、増田が願っている事からすれば、ずるい結論ですね。

はてなブログからトラバが出来ないので、増田に届かないかもしれませんが、それでも答えたくて書いてみました。