メモ(今日の礼拝より)

ローマ人への手紙第7章18〜20節、24〜25節
(18)わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意思は、自分にあるが、それをする力がないからである。
(19)すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
(20)もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
(中略)
(24)わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
(25)わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

「わたしは過去に於いて救われ、また現在も救われ続けている」
上記は、あの使徒と呼ばれたパウロが、当時の異邦人であるローマ人に自分の信仰を証し*1して述べた文である。そう、あのパウロが。努力や忍耐という言葉に相応しい人物であるのに、彼は「善をしようとする意思は…あるが、それをする力」を持ち得ない、「みじめな人間」である、と証ししている。
「自分のパワー」で信仰を続けようとする時、だが既に「わたしの内に宿っている罪」がわたしの行動原理としてわたしを支配しているのだから、そのアウトプットも「欲していない悪」であると、あのパウロですら、そのように言っている。
この箇所に関連するのだろうか、「自分の努力」についてプロゴルファーの中島プロは「努力を携えて、神の前に出る」、そして「勝利というのは、結果的に与えられるうちの1つ」だと言っていた。私は、確かに自分自身が「力のない」人間であるとは知っている。が、それを認めているだろうか。自分がダメ人間だから苦しい、しかし心の内ではそれを認めようとせず、「ホントウのジブン」は能力があるのだとばかりに思い上がるから、二重に息苦しくなっているのではないだろうか。愚かしい。
罪と戦うというのは、自分の罪の性質を無視して、ありもしない「イノセントな私」を夢見る*2のではなく、むしろ、ただひたすらに自分の罪を自覚し続ける事なのだろう。それがどうだ、見事に前者の罠に嵌っているじゃないか、この偽善者が!
「自分の能力」としての「努力」によって救われるのではない。私は「他者の顔色」の前に「努力」…というか、偽り・誤魔化しを含めた「自分の力」をひけらかしてばかりだ。他者との優越と卑屈に揺れる弱い精神*3だからこそ、弱さを認めて、他者でなく神の前に全てを持っていくべきだろうに。

*1:あかし。信仰告白であったり、救いや恵みの体験のわかちあいであったり、基督者が信仰に基づいてする話を総称して、そう呼んでいる……んじゃないかなぁ?

*2:最初「志向する」と書いてみたが、この浮ついた傲慢さは、自らその方向へ位置づける「志向」という言葉よりも、妄想に戯れるという意味での「夢見る」の方が相応しい

*3:「風が吹いて飛ばされそうな、軽い魂」(スピッツ「楓」)、なんてね