「偶然性に身を晒せ」から「神の時」へ

自分の手に負える、つまり極めて小さくて波のない生活こそ、私が最も好きな過ごし方なのですが、それはそれでクローズドすぎるし、何より、あまりに管理的すぎると思います。特別、電話もメールもしないし。いや、それ以上に、発見であったり出会いであったり、それら全ても携帯かPCに管理された、想定内の偶然になってはいないか。そんなことを思ってから、「偶然性に身を晒せ」という標語を掲げて、たとえば、空振り覚悟で何の当てもなく大学時代のサークルの部室へ行ってみたり、色々と無駄なことでも考えようかとしておりまして。
さて、今日の夕礼拝の宣教より。私には「私のスケジュール」といいますか、もっとゆるめの概念で考えれば「私の想定する時」があって、それに従って生きていると言えましょう。しかし、私が予想しないタイミングで「神の時」はやってくる、と。それは最大のチャンスの瞬間でもあり、ただ一回性の中にのみ存在するのではないか、と思いました。
先程「偶然性」と私は考えていましたが、この「神の時」は言い換えれば「神の計画」すなわち「(未だ私の知らぬ)必然」であり、これは「偶然」とは全く相容れぬ存在であります。それを踏まえた上で。私が「偶然」を生活から排除しようとする時、全てのイレギュラーな出来事が流されようとされてしまいます。もし「私の計画」にない、イレギュラーな事件を通して「神の計画」が用意されていたとすれば、逆説的ではありますが、私の支配の及ばない「偶然性」に目を留めないでいれば、何ぞ「神の時」に気づくことがありましょうか。
……多分、最初の想定(機械的に管理された偶然)から見れば、横滑りも甚だしい強引な展開だと我ながら思いますが、少なくとも聖書は、全ての瞬間に敏感であれ、と言ってるような気がしました。