今日の礼拝より

ローマ人への手紙 7:24〜25
24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
25 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

あの、救われた後のパウロの言葉。あのパウロが「みじめな人間」。あの大伝道者が「死のからだ」。あの使徒が「肉では罪の律法に仕えているのである」。
そして、そんな告白をするパウロが「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」と証している。
じゃ、私は自分を「どれほどの者」だと思い上がってるのだろうか…。どれほど「神に感謝」してるのだろうか…。調子の良いときは感謝…でも肉なる「罪の律法」に負けている時は感謝できないとでも言うのだろうか……。それならば、いかほど自分の肉たる「罪の律法」に自ら打ち勝てるとでも、言えるのだろうか…出来ぬ力を頼もうとすること自体が、最初から間違っているのかも、しれない。