諦めること、楽なこと、本当に楽なこと

たとえば、走ることに意義を感じている人にとっては、走ることは楽しいことだろうし、そう思ってない人は寝てれば楽なのかもしれない。と、思いきや、順位とか…いや完走すら目指してないんだけど、たとえば、みんなと散歩するのが好きって人はそうしてればいいワケで。
何が各人にとって一番楽しいのか、楽なのか、は、他の人にはそうそうわからなかったりする気もします。
言ってしまえば、自分は甘々いので、全ての存在がボンヤリと楽しければいいのにと日々思ってるだけなんですけどね。
それと「目標→達成」のみが楽しみではなく、たとえば「目標を持つ事自体」が楽しみな人もいれば、目標すらわからないまま惰性に生を貪っているけど、不必要なまでの束縛が身の丈に合わなかったので、改めてそれを脱いでみました、後のことはこれから考えます、っていうくらい、緩い構えがあっても全然おっけーな気がします。
そう身の丈。うん、それ。自分は色んな意味で「闘って勝てる」ような身の丈ではないので、ただ、そうしないだけ。ただ、わかりやすい敵、目標がいないもどかしさは感じるけどね。(だから滝本竜彦とか好きなんだろうな)*1
…あ、いや、自分がぬるいので、そんな自分もおっけーになるように基準を緩くしてるだけなんですけどね。自分に甘い分、ちゃんとそれ以上に他人にも甘く、って。

(追記)
甘い、甘い。と書き続けてるとアレだから。
親しい人にはよく言ってる事だけど、結局、自分は生存が一番だと思ってますので。現代の生活だと、最低限の仕事を最低限頑張ろうではないか、という感じに。もちろん甘いので、最低限の生活の為に最低限の仕事を保証できる社会にしよう、みたいな希望はあるんだけど。

*1:…いや、ここら辺は掘り下げていくともっと微妙で、切支丹としてはやはり、この世での霊に対する戦いってのがあるのだから、それをスルーするかのような態度もよくないのですけど。じゃあ、具体的に「これが敵だ」っていう風になるのかというと、そこは「血肉に対する戦いではなく」「霊」に対するものだって聖書にあるように、わかりやすい敵をつくって闘ってるフリをしても、それはそれで自分の心に於いて足下をすくわれる事もあるので…何が戦いなんだか、サッパリ自分にはわかりません