私がまだクリスチャンでもなくたまに教会へ遊びに行くだけの小学生だった当時の教会学校で、先生をされていたご婦人が、先日、高齢のために天に召された。

病ではなく最期は本当に安らかだったと聞いて、悲しみの中でも主に感謝しつつ、結局、皆で祈りながら少し泣いてしまった。

今年だけで既に5件の葬儀に出ている。ある時は遺族として、ある時は会社の後輩として。30代中盤とはそういう時の気遣いも自然にできる事が必要な年齢なのだろうな。


さて、私が知り得る周囲のクリスチャンの間には「天国の希望」という言葉があり、使われることも多い。通例、「救い」について究極的な希望を述べる時に「私たちには天国に希望がある」みたいな言い方をする。もちろん、文字通りに自分の死後への希望があって、転じて今の人生への肯定に繋がる面もあるのだろうけど、この希望は残された者たちにこそ強力な希望となっているのも確かだ。

私には希望がある。正しくは、私に初めから内在しているのでもなければ、私の努力、犠牲、感性によって得たものでもなく、渡された希望をそのまま受け取っている。この希望は全ての人に配られていて、誰でも受け取ることが出来るとも信じている。だから、あなたの手元にも希望は届けられているとも、受け取り得るとも言える。資格の問題ではなく、意思の自由だ。私が世を去った時、もしも惜しんでくれるような方がいるのなら、願わくば同時に「でもkash06ですら、希望が渡されてるんだよな」と思ってもらえるならば、嬉しい事だ。

全ての人に希望の可能性はある以上、人が最期の時に神とどのような対話をしたのか、そして神がその人をどのように取り扱われるか、私たちが知り得る事ではなく、また論ずる領域にはない。

だから私は、他者の希望の有無を断じる事は一切しないが、一方で希望を前にして相互に慰められる事も確かにあると思っている。


私が持つ天国の希望は、私自身が持つ希望であり、出来れば誰かへの慰めであって欲しい。いや、誰かにとっては、かえって哀れみの対象なのかもしれない。

まぁ、希望、希望と連呼するが、抽象的な言葉に酔って内実を考えない愚かな私の性質を知っていれば、誰も信用しないかもしれない。特に仕事関係の甘さを知っている人ならば。

だがそれでも、慰めなく生きていけるほど強くはないよ、私は。


先生、ありがとうございました。必ず、また会いましょう。

私にとっては遠い日かもしれないですが、あなたにとってはきっと遠くお感じにならないでしょう。