具体的な生き方を考える事の難しさ

私はかなり教条的というか、たとえば教科書に書いてある事に対して深く具体的に考える事が苦手で、中身を考えずに字面だけ飲み込むような、そういう表面的な性格がかなり強いと自己分析しております。事実、会社でもよく注意される事でもあります。
抽象的な「キーワード」を目にした瞬間、それで考えるのを止めてしまう程度の頭とでも言いましょうか。自覚はしておりますので、確かな土台と具体性というのが私の課題だと思っています。(そして、これは改善される兆しが全く無い…。

さて、こんな増田を見かけました。
[今日も聖書を読む読む] 生きる意味
おそらく「聖書を読む読む」の増田兄弟による元増田へのご返信かと推察いたしました。


そこで今回、元増田氏ではなく読む読む増田兄弟の方にレスをしたいと考えました。と言いますのも「人間一般が生きる意味を聖書から受ける事」と「それを個人的な自分の生きる意味として抱く事」の、この間を渡すものが何であるか。それについて考えたいからです。また、それについての私の考えを聞いていただきたいと思い、このように筆を執る次第です。

最終的に聖書の言葉へ辿り着きたいと考えますが、それ以前に「生きる意味」を問われた時に「なぜ聖書に辿り着くか」を考えなくてはなりません。そして本来ならば人類一般へ向けた言葉で語られるべきなのでしょうが、私には恥ずかしながら自分の事しかわかりません。ですので主語を「私」とした場合、私がこのように受け取っているという意味で前提を述べる事といたします。


私が救われた経緯について過去にも書いた事がありますが、かつて私は「浅ましく罪ある自分でありながらも、救われるものなら救いなるものを受け取りたい」と考えました。
→それは「聖書に示された福音を信じる(つまり、神の遣わしたイエスによる愛と赦しを信じる)」事だと受け入れました。
→この事により、「基本的には聖書の全体を信じるものとして取り組む」ようになりました。
→従って、聖書の中に生きる意味を探すべきなので…
→その結果、聖書の言葉から自己の生きる意味を探すようにしたい、という順であり、理屈であります。


なので、生きる意味と言った時に聖書を引用します。それは闇雲に古典から引用を求めるのではありません。繰り返しますが、私個人の視点から出発した場合、まず救済の福音を示され、それを信じる事と聖書を信じる事がイコールであったので、結果として聖書から生き方を探るように位置づけられました。つまり土台は、神からの一方的な愛・恵み・恩寵としての救いの福音となります。だから聖書を持ち出すのです。
こうして聖書を読むべきだと先に定めたから、聖書の引用を「私の生きる意味」として結びつけられると考えます。あるいは、結びつけるべきだと、先に定めていました。
この「なぜ、わざわざ聖書なのか?」という前提条件が明示されないと、いきなり聖書が引用される事の意味が通じないのでは…と思ったので、先に記した次第です。


ここまでが長い前振り。続きまして、これは主に改革派教会に当てはまる事でありますが、ウェストミンスター大教理問答*1の問1を見てみると、ずばり「人生の目的」について示されています。

問1
人間のおもな、最高の目的は、何であるか


人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし*2、永遠に神を全く喜ぶことである*3

「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」第1コリント 10章31節(口語訳)

いきなり結論となりますが、私にとっては上記の引用箇所を目下の目標にしたいと考えます。というのも「何をする」「何になる」という行動や結果を目的にするのではなく、どのように現れるかは個人に示された道があるけれど、それが全て「神の栄光」に繋がるように生きる事を意識したり、優先するという、大きな基準だと思ったからです。

だから読む読む増田氏の増田を読んだ時に想像したのは、内村鑑三師はこの「神の栄光」のために著述をしたのだろうな、という勝手な連想です。

内村鑑三『後世への最大遺物』を読む。
⇒結論:金儲けや教育や物書きの才能がある人はそれで後世に遺産を残せる(そこに生きる意味がある)けど、そうでない人も、高潔な生涯を送ればそれ自体が後世への遺産になるんだよ。
⇒(泣)

◇『聖書』を読む。
⇒結論:人間は、信仰を通じて高潔な生涯を送り、神との関係を回復することに(この世を)生きる意味があるんだよ。

なるほど、読む読む増田氏は内村鑑三師の著作を通して、師の書き記したものに「神の栄光」を見たのかもしれない、だから聖書を読もうとされたのかと考えました。その上で、もう一つお聞きしたいと思いました。「神との関係を回復すること」とは、具体的にどのような状態にある事をお考えでしょうか?

もちろん意味がわからないとは申しません。イメージで言えば創造当初のような、アダムと神が直接に顔を合わせて語り合い、委ねて生きる事だと思います。また引用した部分の意味からすると、「信仰を通じて高潔な生涯を送り」に掛かっているようにも思えます。「高潔な生涯を送」ることが「神との関係を回復すること」とイコールなのでしょうか。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」エペソ2章10節(口語訳)

確かに、そのための備えまであると書かれています。実にアーメンだと思います。

けれど一方で「神との関係」とは、高潔な生涯によるものだけとは思いませんでした。それは聖書の中でも特に旧約聖書、たとえばダビデの生涯などに現れていると思います。彼は神との関係において、間違いなく聖書(イスラエル史)を代表する大人物のひとりです。けれど聖書は、ダビデの事を高潔だけの者とは書きませんでした。最も有名なところでバテシバへの姦淫とウリヤ殺しの首謀者ですらありました。それも現代的な「神を知る前の生活」的なビフォーアフターではありません。散々神に用いられて、王となった後の事であります。
では「神との関係回復」とは何でありましょうか。ダビデの例をそのまま引用すれば、日々犯してしまう罪への悔い改め(当時は贖罪の犠牲)が挙げられると思います。
また、私は結局「神との関係する事そのもの」だと思いました、非常にトートロジーというか、何も言ってないようではありますが…。
ですので、もう一つ聖書から参照しようと思います。

後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」主はその聖所、高い天から見渡し、大空から地上に目を注ぎ、捕われ人の呻きに耳を傾け、死に定められていた人々を解き放ってくださいました。シオンで主の御名を唱え、エルサレムで主を賛美するために諸国の民はひとつに集められ、主に仕えるためにすべての王国は集められます。(詩篇102:19-23)(新共同訳)

「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」」そうなのか! 21世紀と呼ばれる、遙か後の世の私たちにも書き残すのは、この事だったのか!「賛美をするため」という単純な言い方ですが、これが神との関係の手引きとなるかもしれません。

本当はこの「神」という存在に迫る為に、そもそも神は善なる方であり、そもそも人の救いと幸せを願っておられる存在だという前提条件についても書き加えられれば、だから関係すべき対象であるのだと言う話にも繋がるのですが、時間の関係で少し省かせてください。

けど最後に、もう一つ希望めいた事を引用させてください。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ 8章28節(口語訳)

「凡てのこと相働きて益となる」(文語訳)。共に働いて、すべて益となさしめて下さる希望があるのですから、私たちの捧げる犠牲や最善などはどこまで行っても所詮欠けのあるものだとして、それすらもご計画の中で召して、共に働いてくださる、そして益としてくださると、信じていきたいと思います。

何か、タイトルに掲げた具体性からは結局離れたままで申し訳ないです。

追記:また或いは「力を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」「自分を愛するように、隣人を愛せよ」を挙げる人もいるだろうな…とも思います。これも大切な生きる方向であり、また行動そのものは、人に託されているのだと思いました。

*1:ウェストミンスター信仰基準』(新教出版社.1994)

*2:ローマ11:36、1コリント10:31

*3:詩73:24-28、ヨハネ17:21-23