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思った事

因果応報への徹底的すぎる否定と2.「そんなときは自然を見よう!神の偉大さが分かるし、自分が神の下僕でしかないことにも気づくはず」と書いてある、いわゆる「一般啓示」。
考えてみれば、ヨブ記に限らずこの世の誰にでも理解出来ない悲しみが襲ってくる。その時、この世の中で起こってしまう事に対して、原因を探る事が生きる事なのだろうか。私は逆に、この先もどうやって生きていけば良いのかを与えられたい。事後的な考え方かもしれないが、この世でどうしても起きてしまう悲しみに対して、むしろ悲しみの中にいる人に対してこそ神が必要で、神はいてくれると考えたい。
「良い人には良い事が、悪い人には悪い事が」と言ってしまうと、むしろ最も神を求めている悲しみの中にいる人に対して「あなたに原因がある」と、逆のものを提示してしまうかもしれない。それはねじれだ。この世界で起きてしまう事に対して、私たちがこれからも生きていく為に、神がいてくださるという原則に戻るためにヨブ記的なアプローチがあるのかもしれない、と思う。

「わたしは彼の祈りを受けいれることによって、あなたがたの愚かを罰することをしない」(ヨブ記42:8)

何より、罰する事が目的なのではなく、最終的には人が善い生き方に向かう事が、神の最終目的であると信じるし、何より罪を罰する清さと同時に罪をゆるす方であると信じます。

「いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」(出エジプト記34:7)

清さは譲らないけど、それに対して「ゆるす者」である本質は変わらないと思います。


(とはいえ、ヨブ記は本当に苦手で、全く自分の腹で理解しているとは言い難い……わからない…)