[今日も聖書を読む読む]

ロマ書の続き読んでたら、やっぱり信仰だけじゃだめらしい。いや良いんだけど、信仰してたら悪い行いとかまさかしないよねぇぇええみたいなプレッシャーを感じる。

こんな増田があったので、ブコメじゃ納まらなかったので、こちらで短く返信。
(関係ないけど「ロマ書」って言い回しが、ひょっとして文語訳…?と思ったり)

「いや良いんだけど、信仰してたら悪い行いとかまさかしないよねぇぇええみたいなプレッシャーを感じる。」
えぇ、仰る通り信仰だけで「良い」のです!
良いのですが……これもまた確かに仰る通り、その先のペテロ先生の口調が「だからこそ!」になってくのも、すごくわかります。

(前略)むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。
(ローマ人への手紙12章3節)

信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。
(ローマ人への手紙14章1〜3節)

とはいえ、「どのように生きるか」とは、その信仰が与えられた*1人ごとに、各自に与えられ、各自が向き合う問題であるので、良心に従って何かを奨める事は出来ても、遡って悔い改めや救いの否定が出来るわけではありません。どこまで行っても私たちは互いに人間なのですから。
ただパウロは何度か読んでると「ひょっとしたら人が良いのかな…?」と思う点、素直に「譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない」とか「主の命令を受けてはいないが……意見を述べよう」とか「わたしがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであて、あなたがたを束縛するためではない」とか、要は信仰と救済が成立する為の譲れない箇所と、教師としてのアドバイス・意見として言う箇所を、ちゃんと自覚して分けて書いてるところですよね。意外と「最低ラインよりギリギリ守れるなら、ここまでは譲歩」みたいに、永遠の生命に関わるかどうかを軸に、参考意見として残してくれてる…。



なお、プレッシャーは「ヤコブの手紙」著者、主の兄弟ヤコブの方が半端無い模様。

*1:同じ意味ながら「信じる人」ではなく「信仰が与えられた」と書いたのは、もちろん私自身が神を信じるのですが、その信仰とは私の内にも存在する三位一体の御霊によって私に示され、与えられた事を強調しました。「また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない(第1コリント12章3節)」