通りすがりのキリスト教徒

増田から
魂を削って書いている人は宗教が必要なのかもしれない

キリスト教って懺悔だけでも入信しても良いのだろうか、、、増田よりも五感を駆使して懺悔するあたり、
楽な気持ちになる効果は多そうだ。敬虔な増田教信者の自分にとって、適正はある気がするのだけど。

自分はコテコテのプロテスタントですが、そのバイアスを加味した上でも感じている事を少し書きたいと思います。
自分自身が客観的に考えてみた時に、一番大きな意味があったのは「罪を悔い改める」(=懺悔?)という事の、何というか、安心だったかなと。

でもそれは「自分をほじくり返したいから行った」んじゃ無いんです。順番が逆と言いますか…キリスト教的には「既に全ての罪が赦される用意をしました」と、こっちが悔いるより先に赦しを用意しちゃった事にすごさを感じて、私はそれに乗ったんだと思います。

ただ、個人的にはキリスト教徒になった後でも、なるべく自分に対して厳しい事を言う本や意見を読んで自分を律し続けたかった時期もあり、実にその結果、はてな界隈にたどり着いた面もあるので(ここは厳しい批判だけならホント豊富だぜ!)、元増田も一緒に「神に悔い改めつつ、はてなに裁かれる」日々を楽しみませんか?(ひどい