聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。

しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。(ローマ10:14-15)

ひょっとしたら…昨日の続きなのだろうか、今度はこんな増田がホッテントリしていた。

会ったこともないお方をどうして信じられるのだろう
続き信じるとはどういう行為なんだろう

ブコメもトラバも素晴らしいご指摘がされていて、私のような無学な者が後からトラバするほどの事などないのかもしれないけれど、昨日に引き続いて、一基督教徒という立場から返信を書きたいと思います。
(ただし、私自身はネットではキリスト教の人間というより、単なる歴史趣味者とか川島瑞樹のおっかけとか、そういうイメージの人ですので怪しんでいただいて結構です)

まずは先のエントリーについて

でも、イエスは歴史上のある特定の時代に生きていた人物であって、その人に出会うことはできない。
さらにいえば、その一般的なキリストの視覚的イメージはヨーロッパで生み出されたもので、本来のイエスその人の姿とは大きく異る可能性が高い。キリスト教徒がイエスに出会えるのはただ聖書の中でしかない。

エスの人物像を描くという意味でいえば、まさしくその通りだと思います。そのためには歴史考証などなども必要になるかもしれませんね。つまり学術的になっていく。

まずイエスという人をイメージできなければ、三位一体を信じることはできない。それならば神を信じるということもキリスト教の教義的にはできないということになる。
エスをキリストとして信じ、神の位格のひとつであることを信じるというこの凄まじく難しい行為をキリスト教徒はどのようにして達成したのだろうか。私はそれが不思議でならないし、その困難さゆえにキリスト教の教えに感嘆するもののキリスト教徒にはなれない理由でもある。

率直なご意見であると思います。
そして私の回答から言えば、ブックマークでお答えした内容を引用したいと思います。
id:REV さんの指摘が鋭いと思う「believe とbelieve inの差」。存在を具体的に浮かべて実在性を信じるというより、彼を信頼するという方向に意思を決定する事を「信じる」という日本語で表しているのだと思う。(基督教徒 - kash06のコメント / はてなブックマーク

REV さんの指摘が鋭いと思う「believe とbelieve inの差」。存在を具体的に浮かべて実在性を信じるというより、彼を信頼するという方向に意思を決定する事を「信じる」という日本語で表しているのだと思う

IDコールを考慮して一部抜粋)

元増田は既にご存じかと思いますが、整理しながら書いていきますと…
キリスト教で言う信仰とは、闇雲に神の存在を信じるとか威力を信じる事ではありません。神が善なる存在であり、その善から外れた全ての人間がイエスを通して赦される用意がされているのを「信頼する」事を含んで信じると呼んでいます。
存在を思い描いて存在を信じる事と、信じて寄り頼む(信頼する)事の違いは、極端に言ってしまえばこうなります。

「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている」(ヤコブの手紙2:19)

存在を描いて信じる事は、人間以上に悪霊(仮)(要は昔の人が考える反対な存在ぐらいの代置で結構です)の方が知っていると聖書本体でも教えているほどです。人間が行う信じるとは、信頼の事だと思う由来です。


ここで前半終了。
ここまでは、先の増田を元に「信じる」という言葉の中身を考えてみました。

しかし、元増田の一番の疑問は、その信頼へと至るルートが不思議という事だと思います。

おそらく彼らは個々人のやり方でイエス・キリストを信じる強い根拠を手に入れたからこそ、キリスト教徒でいられるのではないかと思う。私はその個々人がその強い根拠を得て、信じることができた、その人が真にキリスト者になれた過程を知りたい。

これは、明確な定義や式もあるだろうけれども、元増田が聞きたいのは個人的な証言なのではないかなぁ…と思う次第です。
昼休みが終わりそうなので、一度仕切り直して続きを…書けたらいいなぁ……ってな感じで、緩く閉じたいと思います。