生まれてしまったことへの始末をつける事なんて出来るのか?(イスカリオテのユダより)

イスカリオテのユダとは何だったのか、などという大きすぎる話題はさっぱりわからないけど。

そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末をするがよい」。そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
マタイによる福音書 第27章3節〜5節

今日読んだ聖書箇所なのだけど、彼の後悔や憤怒、「自分で始末をする」結果の顛末は、わかる気がした。

同時に思い出したのは、太宰のこれ。
太宰治 駈込み訴え青空文庫より)

世界が一人称で出来上がってしまう、そうならざるを得ない、ってのは多分このユダのような事で。少なくともこの作品におけるユダにとっては、イエスという先生は実に美しく馬鹿らしいというのが、彼のわかっている、理解している、了承している世界の現実なんだろう。(という事しかわからない。客観なんてわからない)

エスは美しい、しかし私は嫌われているという対立。あの人の美しさも落ちかけている、だから私が責任を取ろう。しかし「みんな来い。われらの優しい主を護り、一生永く暮して行こう、と心の底からの愛の言葉」が胸に沸き返る。それにも関わらず…

はッと思った。やられた! 私のことを言っているのだ。私があの人を売ろうとたくらんでいた寸刻以前までの暗い気持を見抜いていたのだ。けれども、その時は、ちがっていたのだ。断然、私は、ちがっていたのだ! 私は潔くなっていたのだ。私の心は変っていたのだ。ああ、あの人はそれを知らない。それを知らない。ちがう! ちがいます、と喉まで出かかった絶叫を、私の弱い卑屈な心が、唾(つば)を呑みこむように、呑みくだしてしまった。言えない。何も言えない。あの人からそう言われてみれば、私はやはり潔くなっていないのかも知れないと気弱く肯定する僻(ひが)んだ気持が頭をもたげ、とみるみるその卑屈の反省が、醜く、黒くふくれあがり、私の五臓六腑(ろっぷ)を駈けめぐって、逆にむらむら憤怒(ふんぬ)の念が炎を挙げて噴出したのだ。ええっ、だめだ。私は、だめだ。あの人に心の底から、きらわれている。売ろう。売ろう。あの人を、殺そう。そうして私も共に死ぬのだ、と前からの決意に再び眼覚め、私はいまは完全に、復讐(ふくしゅう)の鬼になりました。

ユダは自分の心でだけ世界をつくりあげたのに、その心が彼の内から出たのではなく、イエスの一言一句に対する勝手な「反応」によって生まれたのにすぎないのなら、彼はいったい何者であったのか。彼の住む世界とはどこにあったのか。本当に存在したのか。

おそらく、このユダは聖書の通りに「罪に定められる」イエスを見て、後悔し、始末のつかない事への始末の仕方を諦め、受け止めることもできず、銀貨を投げ込み自殺するのだと思う。それも血を流すようなやり方ではなく、首をつるのだろう。

そういえば、自殺するなら縊死が良いと読んだことがあるな。*1

*1:追記として。別に自分をユダになぞらえるわけではなく、むしろ今日、冒頭の聖書箇所を読んで、三十歳にもなってはじめてユダの気持ちがわかったと思ったほど、今まで理解できなかった。自ら裏切ってしまった落とし前を過剰に取りたくなる、という意味では、一度「転んだ」が故に二度目は過激に立ち上がった島原の乱の方が、気持ちはよりわかる。