高山右近の寺社破壊伝承への個人的な理解

http://www.asahi.com/articles/ASGC835Z9GC8UHBI014.html
高山右近福者認定が進むかというニュースが話題になってました。

はてなブックマーク - 高山右近を来年「福者」認定か バチカン高官ら示唆:朝日新聞デジタル
はてブで右近の寺社破壊について言及されていたので、ほとんど調べる時間は無かったのですが、私の理解をメモしようと思いました。

まずwikipediaの記述を元にされているようなので、参照したいと思います。(2014年11月9日現在)
高山右近 - Wikipedia

だが右近はキリスト教徒にとっては名君ではあったが、神道氏子・仏教徒にとっては父・友照同様に暴君だったとする記録もある。友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。

この「記録もある」、「寺社の記録には…記述がある」というのがポイントでしょう。wikipediaでは、それぞれ記録があるという事まで触れてありますが、それぞれの史料への検証、研究自体には言及されていないという立場なのかと思います。*1

手元で用意できた参考書が2つしかないので、あくまでも私の拙い理解ではありますが、メタブではこのように書きました。
はてなブックマーク - はてなブックマーク - 高山右近を来年「福者」認定か バチカン高官ら示唆:朝日新聞デジタル

高山右近の寺社破却については、切支丹という面だけを拡大解釈している節があると思う。これは日本側、カトリック側双方共に。織田氏に属する一武将としての行政や中世の慣習も考慮したい。 http://hdl.handle.net/2065/30131

Web上でも読める参考文献として「高山右近の寺社破壊に関する一考察」(山下洋輔.2008)を挙げました。
早稲田大学リポジトリ
先行研究の整理でも書かれている通り、「寺社の破壊」が伝承されている以上、記録として受け止めるべきではありますが、同時に記録への検証も伴う必要があると考えます。気になる箇所として下記のようなものがあります。

天正年中、高山右近による焼討にあったという寺伝を残す寺社は多いが、天正期以前の文書がかなり残っていること、仏像などの状態から焼討された形跡のない寺院も多いことを、天坊幸彦氏、臼井信義氏などが指摘している。

wikipediaには「ほとんど残らず」「異常な事態に陥った」とまで断定的に書いていますが、真逆の指摘もなされていると認識できます。ただし、天坊氏、臼井氏の調査・指摘も未読ですので単なる孫引きの認識ではあります。

友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った

さて、様々な視点から寺社破壊について検証がされていますが、簡単に論点を挙げますと「寺社破壊そのものが、そもそも中世〜戦国期の領主の政策の過程として一般的に行われる事態だったのではないか」(=切支丹大名である事に意味を持たせる必要が薄い)、「右近個人の平時の政策ではなく戦災として起こった事件ではないか」という点があると思います。
個人的には前者について「安堵状が発給されている」事を理由に、「寺社も安堵しているではないか」という安直な理解をしていましたが、これはもう一つ理解を深める必要があったようです。「安堵している」こと自体が、寺社への保証を領主が下しているわけで、裏を返せば「破壊する」ことも含めて統治の内に及ぶと考えられます。しかし、ここで思い出すべきは中世の寺社が一つの経済体であり機能と実力を持っていたのに対して、近世では江戸幕府の統治の元にある…つまり戦国期とは、その統治へ向かう過渡期であった事ではないでしょうか。
その上でブコメに戻りますと「織田氏の一武将として」つまり、戦国大名としては織田氏全体の政策の中に、右近の施策を位置づける視点も必要だと思われます。(特に、大友宗麟の例と「並べて」右近について言及される事がありますが、日向全体を支配する戦国大名そのものであった宗麟と、戦国大名織田氏に外部から帰属した畿内武将の右近を、そのまま横に並べて括るのは少し保留したいと思っています)

このような寺院は、地域の領主層や住民にも影響力を持っている。右近の寺社への姿勢や「焼き討ち」は、茨木城主中川清秀との地域支配をめぐる係争地の掌握と不可分と考えることが重要で、「あった」「なかった」という問題ではない。右近による寺社破壊や「焼き討ち」の結果について、高槻城主個人の宗教観や権力形成のみによる評価は一面的である。地域社会の動きなどをふまえ、検討を加える視点が必要ではなかろうか。
高山右近 キリシタン大名への新視点』「序章 総論 高山右近への視点」(中西裕樹)
宮帯出版社/商品詳細 高山右近 キリシタン大名への新視点 中西裕樹 編

歴史学は結局、記述に対して常に検証・検討が必要なんだな…というありきたりな結論に到るわけであります。

*1:これ自体は、wikipediaがweb上でのプロジェクトであり歴史の学会・媒体ではない事の限界であるかと思うので、踏み込んであれこれは言いません。