聖書に出てくる「人」について(きなこ味からしいたけさんへ)

今日、こんな増田を見かけました。
○○人を「○○びと」って読むのかっこよくね?

id:wattoさんから、こんなコメントが…。

パリサイびと、サマリアびと…というコメントは、チロルチョコきな粉味アイコンの人に任せるべきだったか?
http://b.hatena.ne.jp/entry/361889209/comment/watto

どうも、きなこ味です。コールではなく比喩的に召喚されていたのですが、登場しました。
確かに聖書には「○○人(びと)」が沢山出てきます。しかし一方、「○○人(じん)」も出てくるのです。そこで色んなパターンを思い出してみたのですが……自分のブコメに短くまとめた通り、ある程度の法則があるようです。但し日本聖書協会の口語訳聖書での話になります。


まず旧約聖書では、ある程度のグループの事を「びと」と表記しております。
ウィキメディア財団Wikisourceから引用させてもらいます。

ヨシュア記3:10
そしてヨシュアは言った、「生ける神があなたがたのうちにおいでになり、あなたがたの前から、カナンびと、ヘテびと、ヒビびと、ペリジびと、ギルガシびと、アモリびと、エブスびとを、必ず追い払われることを、次のことによって、あなたがたは知るであろう。
ヨシュア記(口語訳) - Wikisource

特別なグループ、ユダヤ民族の中で誓願を立てた人を「ナジルびと」と呼びました。これも平仮名表記の「びと」ですね。

民数記6:2
イスラエルの人々に言いなさい、『男または女が、特に誓いを立て、ナジルびととなる誓願をして、身を主に聖別する時は、
民数記(口語訳) - Wikisource

12部族の中でも「レビびと」も「びと」です。普通、他の部族は「ユダ族」「ベニヤミン族」みたいに言われる気がします。ただ部族から派生した氏族は「びと」なんですよねぇ…。

民数記26:57
レビびとのその氏族にしたがって数えられた者は次のとおりである。ゲルションからゲルションびとの氏族が出、コハテからコハテびとの氏族が出、メラリからメラリびとの氏族が出た。
民数記(口語訳) - Wikisource

さて、新約聖書でございます。ここに漢字で人と書いて「びと」と読む、増田のパターンが現れるのです。
およそ部族だとか地域の人、都市の人、あとは旧約のように特別なグループが、まさにこの「なんとか人(びと)」。しいたけさんが挙げていた「パリサイ人(びと)」は特定グループ、「サマリア人(びと)」は地域の人。

では聖書に漢字で人と書いて「じん」と読む、現代でよくあるパターンはどうかと言いますと……それもあるのです。まとめて出てくる箇所があるので引用してみましょう。

使徒行伝2:1
五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
2:2
突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
2:3
また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
2:4
すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
2:5
さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人(じん)たちがきて住んでいたが、
2:6
この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
2:7
そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人(びと)ではないか。
2:8
それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。
2:9
わたしたちの中には、パルテヤ人(びと)、メジヤ人(びと)、エラム人(びと)もおれば、メソポタミヤユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10
フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人(じん)で旅にきている者、
2:11
ユダヤ人(じん)と改宗者、クレテ人(びと)とアラビヤ人(じん)もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。
使徒行伝(口語訳) - Wikisource
ただし、ふりがなはkash06が手元の聖書(口語訳)から追記

さすが降誕、受難と復活に続く、キリスト教の三大イベント聖霊降臨。いろんな人(の言葉)が一気に出てきます。
そうです。ユダヤ、ローマ、アラビヤ、他の箇所ではギリシヤの人は「じん」なのです。これは私が読んでいる感触レベルで物を書いてしまいますが、一都市に限定されない国的なまとまりに対しては「じん」を使っているように思われるんですね。
ヒントになるのが「エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人(じん)たちがきて住んでいたが」の箇所。生まれ故郷をさして「〜〜人(びと)」な人たちが、みなユダヤ人(じん)だというのです。当時のユダヤ人とは、割礼を受けた律法を守る人々であり、ユダヤ人として各地に散らされているので、別の生まれ故郷を持ったユダヤ人というのが形成される…という理解で多分そんなに外れてないと思います。(学術として学んでないので、微妙で慎重な表現にならざるを得ない)
この「じん」と「びと」の違いが、たぶん一番わかりやすいヒントなのかなぁ…と思っております。以上が結論でありますが、日本聖書協会の翻訳方針などを直接聞いた事はありませんので、非常に狭い知識と記憶と理解の中から私が抜き出した箇所だけで考察したものである事を、ご容赦いただければ幸いです。



…あ! ここであれを思い出した方は素晴らしい。
「ローマ人への手紙」

これって、ローマ人(びと)じゃない? そうです、そうなんです。パウロが書簡の書き出しで、こう書いてます。

ローマ人への手紙1:7
ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。

ローマ帝国全体じゃなくて、都市ローマに住む信徒への手紙だから、ローマ(都市)人(びと)になるのだと、なんか改めて気が付いてしまいました。

それでは最後に、同じページで「人(じん)」が連続する箇所で終わりたいと思います。

ローマ人への手紙1:16
わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人(じん)をはじめ、ギリシヤ人(じん)にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。

時を越え空間を越え、あらゆる面で遠く離れた現代人(じん)にも、日本人(じん)にも。

はてなダイアリーはもはやネット界の限界集落 - ARTIFACT@ハテナ系
こんな話があったので、ついつい乗ってしまいました。

まさに今日、はてなダイアリーについて話をして、私の今年の目標がダイアリーを更新する事に決まったところだったので…。インターネット老人会として最後まで頑張りたいと思います。
http://b.hatena.ne.jp/entry/357452010/comment/kash06


それから昨年末にも、とある会合で、とある人から「せっかくだからダイアリーも更新してはどうですか」と言われていたのも頭にあったのです。

インターネットが大好きで、ずっと読んでたけれど「コンテンツ」みたいなものを圧倒的に作り出せない人間でしたので、そこが人生の長い悩み所なのです。確かに、昔は毎日日記を書いていました。けれど、ほとんどが「リアルの自分も知っている友人向けに、全く面白くもない自意識を書き続けただけの日記」ばかりでして。
私の20代前半は、1年半に及ぶ辛い就職浪人生活と、営業として採用後にも本当に業績達成しない無能状態の中で、自分が人生のツケを払っているような気分でした。そこで「普通の人になりたい」という人生のリハビリとして、なぜか「せめて毎日、日記を書く」という行為を自分に課したのであります。
よく言うじゃないですか「簡単な事でも良いので、毎日続ける事で、少しずつまともになる」とか「自分への自信を持てるようになる」とか。


最終的には「ネットで日記を書いた」事によって救われたというより、「こんな仕事も出来ないダメな人間にも注文を出してくれるお客さんがいるんだ、話を聞いてくれる人がいるんだ」という、仕事上での日常によって救われた気がします。念のため強調しておきますが、成果によってではなく、日常によってです。相変わらず業績は地を這うようでしたし。
けれど、結局自分は就業によって日常を得たのならば、これまで就職によって苦しさを分かち合っていた同じ氷河期世代の人たちとも、底の底の苦しみまでは共有できずに、自分だけ逃れてしまったのでは……とも思うところはありました。

あぁいけない、話が大きくズレすぎてしまった。
いずれにせよ私は、人の書いたものを読み漁るばかりで、自分では何も書き残せないまま生きているのであります。今はもうブクマの人として認識されているようですが、つまりは人の書いたものを読んでコメントするブクマとは、自分が行き着く先として非常に相性が良かったのではないかと思うのです。
そうそう、創作文芸界隈でも「完全なる買い専」な人になっているので、体質的には同じですね。焼き肉の時は必ずいるのに何も書いてない人みたいな。

そんなわけで、今年の目標は思い立ったら「はてなダイアリー」を更新する事にしました。
仕事も趣味も中途半端で、私から何も提供も発信も出来ませんが、30代のおじさんが誰も読まないつまらないつまらない日記を、それでも書こうというだけの場所です。それでいいじゃないですか、インターネット。有用か面白いものしか許されなくなってしまったら、凡人の行き場が無くなってしまうから。

あと、キリスト教のこと(特にネットの匿名界隈では人も少なく不人気な福音派として)は、自分の知ってる範囲の事ならば書ける事は書いていきたいなと思います。いやでも、そこまで正確な事や深い事は書けないけど…。

支援

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161207/k10010798731000.html

「伊達直人」名乗り支援活動の男性が思い語る | NHKニュース

名前を出す、出さないを超えて、この人が今も継続して支援をされているという事実が、何より一番強い証だ。素晴らしい。私は何が出来るだろう。/ で、まずは単発の寄付を検討。全国児童施設総合寄付サイトが良さそう

2016/12/07 22:17

この記事を読んでこんな事を言ったので、まず自分でもやってみた。

で、色々見て回った後に辿り着いたのは、このサイト。
現場職員の生の声を形にした全国児童養護施設総合寄付サイト
http://www.leavehome.org/hazimetekihu
この理念を読んだ時、そういえば以前「支援から切り離された卒園後こそ、非常に厳しい。ここを乗り切れない事で貧困に戻ったり、反社会勢力が付け入ってくる」という主旨の新聞記事を読んだ記憶が甦った。その時も「なんとか支援が出来ればいいな」などと思ったのだが、こうして、卒園後問題に直接乗り出している支援があるのだから、今回はこちらを利用して、過去の願いを果たそうと決めました。


さて支援の方法は、どこかしらの施設を選んだ後、「一度だけ寄付」「毎月決まった金額で寄付」の中から希望する金額を選びます。
寄付は銀行振込とクレジットカード決済の2通り。クレジットを選ぶと、電子決済サービス「SPIKE」を通じて「寄付を購入する」形となります。

一応、寄付の前に運営団体「NPO法人日本チャリティ活動支援協会」と、決済サービス「SPIKE」をザッと検索してみたところ、とりあえず悪い話は見かけなかったので粗雑な調べながら両者を信頼して寄付を購入する事と相成りました。


本来、聖書には「右の手のしていることを左の手に知らせるな*1」とあり、こうした慈善的な行為は隠れたところですべきなのですが、今回はむしろ、こうした支援・運動が世の中にある事、児童施設の卒園後の個人こそ社会の弱さが表れてしまう問題を、少しでも知ってもらいたく、このように書き記しました。
また、これから年末にかけて街々では救世軍による社会鍋が行われます。社会鍋、冬の季語にもなってるみたいですが、そういう日本にも土着した募金活動があるのですから、これが活かされれば良いなと願います。

どうか、これらの支援活動が、ますます用いられる事を祈ります。

*1:マタイによる福音書6章3〜4節「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」

具体的な生き方を考える事の難しさ

私はかなり教条的というか、たとえば教科書に書いてある事に対して深く具体的に考える事が苦手で、中身を考えずに字面だけ飲み込むような、そういう表面的な性格がかなり強いと自己分析しております。事実、会社でもよく注意される事でもあります。
抽象的な「キーワード」を目にした瞬間、それで考えるのを止めてしまう程度の頭とでも言いましょうか。自覚はしておりますので、確かな土台と具体性というのが私の課題だと思っています。(そして、これは改善される兆しが全く無い…。

さて、こんな増田を見かけました。
[今日も聖書を読む読む] 生きる意味
おそらく「聖書を読む読む」の増田兄弟による元増田へのご返信かと推察いたしました。


そこで今回、元増田氏ではなく読む読む増田兄弟の方にレスをしたいと考えました。と言いますのも「人間一般が生きる意味を聖書から受ける事」と「それを個人的な自分の生きる意味として抱く事」の、この間を渡すものが何であるか。それについて考えたいからです。また、それについての私の考えを聞いていただきたいと思い、このように筆を執る次第です。

最終的に聖書の言葉へ辿り着きたいと考えますが、それ以前に「生きる意味」を問われた時に「なぜ聖書に辿り着くか」を考えなくてはなりません。そして本来ならば人類一般へ向けた言葉で語られるべきなのでしょうが、私には恥ずかしながら自分の事しかわかりません。ですので主語を「私」とした場合、私がこのように受け取っているという意味で前提を述べる事といたします。


私が救われた経緯について過去にも書いた事がありますが、かつて私は「浅ましく罪ある自分でありながらも、救われるものなら救いなるものを受け取りたい」と考えました。
→それは「聖書に示された福音を信じる(つまり、神の遣わしたイエスによる愛と赦しを信じる)」事だと受け入れました。
→この事により、「基本的には聖書の全体を信じるものとして取り組む」ようになりました。
→従って、聖書の中に生きる意味を探すべきなので…
→その結果、聖書の言葉から自己の生きる意味を探すようにしたい、という順であり、理屈であります。


なので、生きる意味と言った時に聖書を引用します。それは闇雲に古典から引用を求めるのではありません。繰り返しますが、私個人の視点から出発した場合、まず救済の福音を示され、それを信じる事と聖書を信じる事がイコールであったので、結果として聖書から生き方を探るように位置づけられました。つまり土台は、神からの一方的な愛・恵み・恩寵としての救いの福音となります。だから聖書を持ち出すのです。
こうして聖書を読むべきだと先に定めたから、聖書の引用を「私の生きる意味」として結びつけられると考えます。あるいは、結びつけるべきだと、先に定めていました。
この「なぜ、わざわざ聖書なのか?」という前提条件が明示されないと、いきなり聖書が引用される事の意味が通じないのでは…と思ったので、先に記した次第です。


ここまでが長い前振り。続きまして、これは主に改革派教会に当てはまる事でありますが、ウェストミンスター大教理問答*1の問1を見てみると、ずばり「人生の目的」について示されています。

問1
人間のおもな、最高の目的は、何であるか


人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし*2、永遠に神を全く喜ぶことである*3

「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」第1コリント 10章31節(口語訳)

いきなり結論となりますが、私にとっては上記の引用箇所を目下の目標にしたいと考えます。というのも「何をする」「何になる」という行動や結果を目的にするのではなく、どのように現れるかは個人に示された道があるけれど、それが全て「神の栄光」に繋がるように生きる事を意識したり、優先するという、大きな基準だと思ったからです。

だから読む読む増田氏の増田を読んだ時に想像したのは、内村鑑三師はこの「神の栄光」のために著述をしたのだろうな、という勝手な連想です。

内村鑑三『後世への最大遺物』を読む。
⇒結論:金儲けや教育や物書きの才能がある人はそれで後世に遺産を残せる(そこに生きる意味がある)けど、そうでない人も、高潔な生涯を送ればそれ自体が後世への遺産になるんだよ。
⇒(泣)

◇『聖書』を読む。
⇒結論:人間は、信仰を通じて高潔な生涯を送り、神との関係を回復することに(この世を)生きる意味があるんだよ。

なるほど、読む読む増田氏は内村鑑三師の著作を通して、師の書き記したものに「神の栄光」を見たのかもしれない、だから聖書を読もうとされたのかと考えました。その上で、もう一つお聞きしたいと思いました。「神との関係を回復すること」とは、具体的にどのような状態にある事をお考えでしょうか?

もちろん意味がわからないとは申しません。イメージで言えば創造当初のような、アダムと神が直接に顔を合わせて語り合い、委ねて生きる事だと思います。また引用した部分の意味からすると、「信仰を通じて高潔な生涯を送り」に掛かっているようにも思えます。「高潔な生涯を送」ることが「神との関係を回復すること」とイコールなのでしょうか。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」エペソ2章10節(口語訳)

確かに、そのための備えまであると書かれています。実にアーメンだと思います。

けれど一方で「神との関係」とは、高潔な生涯によるものだけとは思いませんでした。それは聖書の中でも特に旧約聖書、たとえばダビデの生涯などに現れていると思います。彼は神との関係において、間違いなく聖書(イスラエル史)を代表する大人物のひとりです。けれど聖書は、ダビデの事を高潔だけの者とは書きませんでした。最も有名なところでバテシバへの姦淫とウリヤ殺しの首謀者ですらありました。それも現代的な「神を知る前の生活」的なビフォーアフターではありません。散々神に用いられて、王となった後の事であります。
では「神との関係回復」とは何でありましょうか。ダビデの例をそのまま引用すれば、日々犯してしまう罪への悔い改め(当時は贖罪の犠牲)が挙げられると思います。
また、私は結局「神との関係する事そのもの」だと思いました、非常にトートロジーというか、何も言ってないようではありますが…。
ですので、もう一つ聖書から参照しようと思います。

後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」主はその聖所、高い天から見渡し、大空から地上に目を注ぎ、捕われ人の呻きに耳を傾け、死に定められていた人々を解き放ってくださいました。シオンで主の御名を唱え、エルサレムで主を賛美するために諸国の民はひとつに集められ、主に仕えるためにすべての王国は集められます。(詩篇102:19-23)(新共同訳)

「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」」そうなのか! 21世紀と呼ばれる、遙か後の世の私たちにも書き残すのは、この事だったのか!「賛美をするため」という単純な言い方ですが、これが神との関係の手引きとなるかもしれません。

本当はこの「神」という存在に迫る為に、そもそも神は善なる方であり、そもそも人の救いと幸せを願っておられる存在だという前提条件についても書き加えられれば、だから関係すべき対象であるのだと言う話にも繋がるのですが、時間の関係で少し省かせてください。

けど最後に、もう一つ希望めいた事を引用させてください。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ 8章28節(口語訳)

「凡てのこと相働きて益となる」(文語訳)。共に働いて、すべて益となさしめて下さる希望があるのですから、私たちの捧げる犠牲や最善などはどこまで行っても所詮欠けのあるものだとして、それすらもご計画の中で召して、共に働いてくださる、そして益としてくださると、信じていきたいと思います。

何か、タイトルに掲げた具体性からは結局離れたままで申し訳ないです。

追記:また或いは「力を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」「自分を愛するように、隣人を愛せよ」を挙げる人もいるだろうな…とも思います。これも大切な生きる方向であり、また行動そのものは、人に託されているのだと思いました。

*1:ウェストミンスター信仰基準』(新教出版社.1994)

*2:ローマ11:36、1コリント10:31

*3:詩73:24-28、ヨハネ17:21-23

今日も返事書く書く

[今日も聖書を読む読む]

思った事

因果応報への徹底的すぎる否定と2.「そんなときは自然を見よう!神の偉大さが分かるし、自分が神の下僕でしかないことにも気づくはず」と書いてある、いわゆる「一般啓示」。
考えてみれば、ヨブ記に限らずこの世の誰にでも理解出来ない悲しみが襲ってくる。その時、この世の中で起こってしまう事に対して、原因を探る事が生きる事なのだろうか。私は逆に、この先もどうやって生きていけば良いのかを与えられたい。事後的な考え方かもしれないが、この世でどうしても起きてしまう悲しみに対して、むしろ悲しみの中にいる人に対してこそ神が必要で、神はいてくれると考えたい。
「良い人には良い事が、悪い人には悪い事が」と言ってしまうと、むしろ最も神を求めている悲しみの中にいる人に対して「あなたに原因がある」と、逆のものを提示してしまうかもしれない。それはねじれだ。この世界で起きてしまう事に対して、私たちがこれからも生きていく為に、神がいてくださるという原則に戻るためにヨブ記的なアプローチがあるのかもしれない、と思う。

「わたしは彼の祈りを受けいれることによって、あなたがたの愚かを罰することをしない」(ヨブ記42:8)

何より、罰する事が目的なのではなく、最終的には人が善い生き方に向かう事が、神の最終目的であると信じるし、何より罪を罰する清さと同時に罪をゆるす方であると信じます。

「いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」(出エジプト記34:7)

清さは譲らないけど、それに対して「ゆるす者」である本質は変わらないと思います。


(とはいえ、ヨブ記は本当に苦手で、全く自分の腹で理解しているとは言い難い……わからない…)

[今日も聖書を読む読む]

ロマ書の続き読んでたら、やっぱり信仰だけじゃだめらしい。いや良いんだけど、信仰してたら悪い行いとかまさかしないよねぇぇええみたいなプレッシャーを感じる。

こんな増田があったので、ブコメじゃ納まらなかったので、こちらで短く返信。
(関係ないけど「ロマ書」って言い回しが、ひょっとして文語訳…?と思ったり)

「いや良いんだけど、信仰してたら悪い行いとかまさかしないよねぇぇええみたいなプレッシャーを感じる。」
えぇ、仰る通り信仰だけで「良い」のです!
良いのですが……これもまた確かに仰る通り、その先のペテロ先生の口調が「だからこそ!」になってくのも、すごくわかります。

(前略)むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。
(ローマ人への手紙12章3節)

信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。
(ローマ人への手紙14章1〜3節)

とはいえ、「どのように生きるか」とは、その信仰が与えられた*1人ごとに、各自に与えられ、各自が向き合う問題であるので、良心に従って何かを奨める事は出来ても、遡って悔い改めや救いの否定が出来るわけではありません。どこまで行っても私たちは互いに人間なのですから。
ただパウロは何度か読んでると「ひょっとしたら人が良いのかな…?」と思う点、素直に「譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない」とか「主の命令を受けてはいないが……意見を述べよう」とか「わたしがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであて、あなたがたを束縛するためではない」とか、要は信仰と救済が成立する為の譲れない箇所と、教師としてのアドバイス・意見として言う箇所を、ちゃんと自覚して分けて書いてるところですよね。意外と「最低ラインよりギリギリ守れるなら、ここまでは譲歩」みたいに、永遠の生命に関わるかどうかを軸に、参考意見として残してくれてる…。



なお、プレッシャーは「ヤコブの手紙」著者、主の兄弟ヤコブの方が半端無い模様。

*1:同じ意味ながら「信じる人」ではなく「信仰が与えられた」と書いたのは、もちろん私自身が神を信じるのですが、その信仰とは私の内にも存在する三位一体の御霊によって私に示され、与えられた事を強調しました。「また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない(第1コリント12章3節)」

「kash06さんて、結局、仕事できないけど、まぁ不真面目ではないし悪い人じゃないから…」と赦されて生き延びたい

http://anond.hatelabo.jp/20160701225522を読んで勝手に思い出した事など。

b:id:cider_kondo さんは、たわば先輩

みんな、卒業しても絡んできそうな感じ、わかります!(失礼

2016/07/02 22:55

こんな事を書きましたが、自分自身もそれに近い性格をしてるんですよね。
実際、大学時代の自分は弱小な歴史研究サークルに所属していて、OBも気軽に遊びに来てくれるし自分たちもそれを期待してたので、きっと自分もそうなるだろうと最初から思っておりました。
ところが、実際に4年生になって気付いたのが、どうも自分の後輩達はそういうベッタリしたモードじゃなかったし、自分の先輩達に比べて自分はとても人に影響を残すタイプじゃなく、むしろ依存してる側だろうという事実。また自分の同級生は基本的には良いヤツだったけど、少しばかり先輩面や部屋を独占するような姿が目に付いたので、せめて自分がバランスを取ろうと4年の中盤になってからは就職活動を理由に、あからさまにサークルへ行く回数も時間も減らしたのでした。
自分は入学して2日目で早々に入部して、それ以来、大学とはサークルへ登校する事であり、その間にお勤めとして授業へ出向き、そしてサークルの部屋へ戻ってから帰宅するという、大学とサークルの部屋がイコールになる生活をしていたのですね。それだから、家を出てから直接大学の教室へ登校する生活をするのも初めてだったし(!?)、身を引くとはこういう事かと、随分、具体的に思ったのでした。

なんて書きつつ、もう一つ思い出した。高校の部活動ではテニスなぞしておったのですが、これも正式な「部」に昇格しない「同好会」扱いの集まりで、立ち上げた先輩や同級生とのんべんだらりと楽しくやっていたのですが、1年下の後輩が少しやる気になって、2年下はついに二桁を超える入部をしてしまって……。
あの、のんべんだらりとした空気、消えましたね。
2年生よりも下手な3年生として、のうのうと息抜きに行こうと思っていたのを諦め、受験にあたり成績が酷く不振な事を言い訳に勝手に出奔したのでした。……英語なぞ10段階の2だったので、言い訳どころか単なる事実でしたが。

話が遠回りしましたが、結局、誰よりも光画部に憧れてた張本人でありながら、やってのける事すら出来ない小心者だったのが私自身だったよという話であります。


あ、そういえば、中学の時の部活でも……(以下略

(あとこれは、「無能な先輩と有能な後輩」という関係までなら行けるけど、そこに新人が入ってくると、組織的な矛盾を生んでしまう事に精神とか欠片のようなプライドが耐えられなくなる問題なんだろうな、と今になって気が付きました。なお会社でも繰り返される模様。