めぐさんの「DUO」を買った話

こんなものを買いました。

DUO

DUO

「Stay」とかね、当時はCDを買うお金が無かったから、BoogieNightで掛かった時の録音テープを何度も何度も巻き戻しては聴いて憶えましたよ。歌詞が本当に素晴らしいんですよね!
転じてDisc2の女性Duet編ですが、本多さんに続き水谷優子さんまで若くして亡くなられましたね。その事が、本当に不思議でたまらない。20年前に、毎日のように遊びに行った友人Kの家で、何度も何度も聴かされたBoogieNightであり、Drinkであったのですが、それを懐かしむよりも早く訃報に接するとは思いも寄らなかったわけです。

「いやぁ、もうしばらくラジオを聴かなくなったし、自分なんてファンとは言えないよ」とか言いながら、やっぱり買って良かった。

久々の日記が、こんな話なのも残念だけど…
まとめよう、あつまろう - Togetterというまとめが、はてなでも話題になりました。
私、ブコメではこんな事を書いてますね。

他の宗教の信徒を神社で参拝させるという行為への違和感 神道の神を信仰する人はいないの? - Togetterまとめ

たとえどんなに今時の人たちが相互理解を探っているとはいえ「参拝」と「見学」の差は、果てしなくあり得ないほど遠い。逆に、キリスト教の聖餐に「参加」しようとしたら絶対に断られる。そういう聖なる領域はある。

2016/05/26 12:11

はてなブックマーク - 他の宗教の信徒を神社で参拝させるという行為への違和感 神道の神を信仰する人はいないの? - Togetterまとめ

あくまで見学については何も思わないし、私も葬儀であるなら最大限故人を尊重している。だが「あくまで自由に拝礼してもらう」と、スタイルが自由であっても拝礼に含まれてしまう重大さがはてブでも伝わらないのか!

2016/05/26 12:21

さて、今回は2つほど書きたい事がありまして。
そもそも、まとめの発端となった記事についてと、はてブの反応についてです。

報道における「参拝」と「訪問」について

【伊勢志摩サミット】G7首脳、伝統体現する「御垣内参拝」で伊勢神宮訪問 「正式参拝」精神性触れる場に 安倍首相は個別で参拝も(1/2ページ) - 産経ニュース
G7首脳、伝統体現する「御垣内参拝」で伊勢神宮訪問 「正式参拝」精神性触れる場に 安倍首相は個別で参拝も」というタイトルにある通り、記事だけを読むと「参拝」「拝礼」にこだわっているようです。
【伊勢志摩サミット】25日にも日米首脳会談 26日にはG7首脳がそろって伊勢神宮参拝 - 産経ニュース
同じく産経13日の記事も「25日にも日米首脳会談 26日にはG7首脳がそろって伊勢神宮参拝」と参拝であると報じていますね。
ここが一番の論点ですが、特定の宗教の形で「参拝」を組み込んでしまうとは、あまりに強引ではないかというのが最初の着火点であり、私の着目点でした。ブコメもそれに準じた形で、とにかく「見学ならわかるけど、拝礼してもらうという表現に含まれるのは本当によろしくない」と繰り返しました。

そして当日の報道ですが…
http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000959/20160526-OYT1T50158.html
G7首脳が伊勢神宮訪問」
http://www.asahi.com/articles/ASJ5W6420J5WOIPE02H.html
オバマ米大統領が26日に訪問した際の記帳の内容を仮訳とともに公表した」
【伊勢志摩サミット・フォト特集】伊勢神宮にオバマやメルケルら首脳陣がずらり勢ぞろい あのファーストレディーも… - 産経ニュース
三重県伊勢市伊勢神宮をそろって訪問した。」「首脳らと内宮の境内を歩いて回った。」

参拝してないですよね、訪問ですよね?

それから伊勢神宮の発表
伊勢志摩サミットに伴うG7神宮表敬について|お知らせ|伊勢神宮
「御神前では首脳各位が御垣内みかきうちに進まれ、我が国の伝統にそった形で表敬いただいた」
やはり、御垣内まで「進まれ」たけど「表敬」したと書いてます。

それもそのはず…
各国首脳ら伊勢神宮に集合−毎日新聞
「主要国首脳会議に参加した各国首脳らは26日午前、討議を前に伊勢神宮を訪れた。政教分離原則に配慮し、参拝ではなく訪問の形をとった。」




明確に、参拝じゃないって決めてあるじゃないですかーー!




参拝ではないように手を回したり、当の伊勢神宮も気を付けて「表敬」と表現しているところ、直前の25日まで参拝の方向で報道しているのは、どうなんだろうと思ったり。
【伊勢志摩サミット】G7首脳、伝統体現する「御垣内参拝」で伊勢神宮訪問 「正式参拝」精神性触れる場に 安倍首相は個別で参拝も(1/2ページ) - 産経ニュース
「正式参拝の「御垣内参拝(みかきうちさんぱい)」で内宮に参拝する方向で各国と最終調整していることが24日、分かった。」
それとも、最終調整の内容が本当に参拝だったのだろうか。そうであるなら、さすがに「それはしてはいけない」と思います。

結局、この件では参拝は行われなかったので、まとめにあるような懸念は「起きてない」という認識で最終的には決着だと思います。ですが、まぁ、今回の件で言うと日本政府に対する懸念が巻き起こった原因のうち、半分くらいは一紙の報道のせいなんじゃないかな…とも思ったり。

はてブでの反応

上で述べた通り「参拝」として巻き込むのか、「見学、表敬訪問」なのか、その違いが一番のポイントだと考えました。ですので、訪問先が伊勢神宮である事について、政治的な反応はそれぞれあるでしょうが(たとえばhttp://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000959/20160527-OYT1T50021.html)、宗教的には訪問する事すらいけないとは思いませんでした。

ですが、たとえばクリスチャンにとっての十戒の例を出すまでもなく、他宗教で神と奉じるものを拝む行為に自身も加わる事を、そうそう認められない事の方が多いのではないでしょうか。何度も繰り返しますが、自ら拝する行為と、見学の違いは確実にあります。

今回、まず驚いたのは大元のまとめのタイトルが、「参拝させて、神社はいいのか」という方向で。いや、それを問うなら、参拝させられる方の事も気に掛けようよ…というか、元tweetはそういう懸念をしてたのに、なぜ、そのタイトル……。(そして、はてブの感想もタイトルに対しての呼びかけと、中のツイートに対する呼びかけが混ざっていく

そしてはてブの反応で戸惑ったのは、「〜〜も訪問している」とか「神社の方は気にしてないから大丈夫だよ」という声が、意外にも多かった事。確かに訪問する事、敬意をもって表敬する事は大切な事だと思います。外交上でも。ただ今回の報道は、そこを「参拝する方向で最終調整」なんてしてるから私は宗教的な引っ掛かりを覚えたのですが……でも、考えてみれば日常で神社へ参拝すると言っても「見に行く」程度の軽いニュアンスで使ってる事の方が多いですもんね。日常語として口に出す「参拝」の軽いニュアンスと、特別に宗教的な背景を気にしながら「参拝」の文字を読むのでは、背景が違うから意味の重みが違うというのも、なんとなく理解できます。

もちろん、ブクマでも「訪問する」が「参拝しない」だろうという外交上の配慮を読み取ったコメントはいくつもあり、私もそうした中の一人のつもりです。
その上で、もう一つ「宗教の相互理解」についてですが、当然、同じ法則ですよね。訪問するけど参拝はしない。理解はするけど同一化しない。
いくつかカトリックの聖体拝領を引用してるブクマがありましたが、距離感としては近い話ですね。カトリックでは聖体拝領・プロテスタントでは聖餐式(主の晩餐式)と呼ばれる式があり、キリストを記念する為にパンと杯をいただく事をします。(コリント人への第一の手紙11章23〜26節より)
聖体拝領式では「カトリックの信徒」であればパンを頂きますが、そうでない人は見学(もしくは祝福を受ける)に留められます。根拠等々まで遡ると今日のところは冗長になるので、そういう事だと思ってください。
プロテスタントの私は、そこで敬意を以て見学しますがパンには預からないわけです。私たちがするのはそこまでであって、それ以上を「やっていいじゃん」の雰囲気だけでは、渡れないわけです。

そして最後に思うのが、線引きをどこに置くのかは個人の良心であり、個人の信仰心であるので、誰がどうしたから全員そうするべきとは言わない方がいいという事。たとえば、私は葬儀に関しては故人を最大限に尊重する一環として、その宗教のスタイルに従う事もするのですが、私と同じクリスチャンの人でも中には考えに考えて、焼香が始まる前に丁寧にご挨拶に伺う人、落ち着いた頃に挨拶される人など、様々な考えがあります。それは、その人が神との対話の中でそう結論を出した事であり、同じ宗教であっても他人である私がどうこう言うものではありません。
ですので、「知り合いのクリスチャンは〜〜してたのに」「あの寺の住職は理解あるのに」と、ハードルの高さ低さに関係なく、一律な基準を振り回すのはなるべく慎みたいと考えるところです。考え方と行動と、この辺りは色んな取り合わせがあるのですから。

2010年代も半分終わって…

割と荒っぽい雑感。
気が付いたら増田に、恋愛に対する渇望ネタが増えた気がして。曰く「交際したい」と。その話題自体は人類昔から変わらないって事でいいのかもしれないけど、自分が知っている2000年以降のインターネットでの話題として捉えた場合、「人から蔑まれない程度の服装がわからないから、教えてくれ。だけど怖い。だが、このままでは辛い。マニュアルをくれ!」の時代から考えれば、ものすごく未来に来たなぁ…と思って。
少し気になるのは、いわゆる「脱オタファッション*1」世代が次の課題として言っているのか、それとも最初から諸々クリアしたような次世代たちが新たな壁として言っているのか。
どちらにせよ、悩みとしては大きなものらしい。出来る事なら「当面の問題ではあるが、人生の最終目的ではないし、人間そのものへの評価ではない」くらいの客観視というか、突き放しが出来れば良いのだけれど…。

*1:私自身はこの呼称があまり好きではない。当時もあまり使わなかった。なぜなら、オタクを脱するつもりがなかったからだ。そうではなく、ぬくぬくと趣味を温存するために、我々は隠れる事を目指したのだ。(しかし、もはやゲームもアイドルもそれ自体が迫害の烙印とならなくなってしまった…

清原容疑者 ブログに離婚後の寂しさ吐露 NHKニュース

あれだけのヒーローで成功者でも、ここまで心が埋まらない日々を送る事になるとは。人にとっての幸せって、なんと複雑なことか。

2016/02/03 15:04

清原氏のニュースに関して、とにかく80年代生まれの僕らは野球を知ったきっかけが、クロマティなり原辰徳なり、清原・桑田なわけですから、非常にショックなわけです。とりわけ、続報として次々に流れるニュースで取り上げられる寂しさや孤独感は、ひょっとしたら、してしまった違法行為以上にショックだったかもしれません。
これからも様々な続報があるのでしょうけど、私の思いは上記のブクマの通りであります。

人気声優の死:異常なしのはずがEB感染症…難病指定訴え - 毎日新聞

自分は伝染性単核球症を30代の遅さで発症したので、EBウイルスと聞いて症状の苦しさを思い浮かべていた。半月の自宅療養ですら高熱と体力低下で体型が変わったので、まして慢性の難病とあらば…と。ご遺族に慰めあれ

2016/02/03 16:28

今から2年とちょっと前、伝染性単核球症を発症したんですよね。あれ、成人が発症すると38度以上の熱が24時間続くのですよ。
その時、1件目にかかった最寄りの診療所では「風邪じゃない高熱」という謎解きに対して、とりあえず麻黄湯が処方されるという、漢方かよ!という有様でして。ところが体温が40度に上がったまま丸一日も経つと、苦しくてどうにもならないワケですよ。確かバファリンか何かの解熱・鎮痛剤を入れて、自転車でもう少し規模のある行きつけの病院まで頑張って足を延ばしたところ、偶然にもその曜日の先生が臓器だったかリンパだったかのご専門だったおかげで「ひとつ心当たりがある」と言ってくれまして…。
あのEBVの発症というやつは、特効薬が存在しないので、2〜3週間ひたすら耐えるしかないのですね。だるさと痛さと強烈すぎる寒気で、眠れないし寝ても目が覚めるわけです。それでも現代医学というのは大変ありがたいもので、1錠で5〜6時間は熱を37度台にまで下げてくれる薬がありまして、それを1日3錠まで飲む事ができたのです。素敵!
…6時間×3錠? 1日は24時間だし、効果が切れると眠っていても寒気と痛みで目が覚めるわけでして。だから、薬の効果が切れている間は、とにかく耐えるしかなくて。実は毎日会社へ電話だけはしていたのですが、翌日に電話を掛ける時こう思うのです「まだ24時間しか経ってないのか! 治癒まであと何回この1日を繰り返すんだ!」って。結局、治るまでの3週間弱で10kgくらい痩せて体力ごと吹っ飛んだのでした。
ですから。松来さんの病名を知り、症状について調べた時には、きっと大変お辛かったろうと強く思ったのです。まして慢性の症状として、襲われていたのなら…。
そんな事があったので、非常に差し出がましく自己語りではありますが、今回私はブコメを残す事にしたわけです。どうかどうか、ご遺族の願いが何かの実を結びますように。そして、いつか慰めがあるようにと祈ります。

「神・罪・救い」のアジェンダと、言及いただいた二分法について

恥ずかしながら、このように言及を頂いておりました。
「完全なる神と不完全な人間」という二分法が、我々の心を楽にしてくれることがあるんじゃないかと思った - しいたげられたしいたけ
わたし、本当は大したことのない単なる臆病者なんですけど、折角ですからお言葉はありがたくいただきまして…。

で、こんなコメントを返しました。

「完全なる神と不完全な人間」という二分法が、我々の心を楽にしてくれることがあるんじゃないかと思った - しいたげられたしいたけ

面白い話になりそうだと油断していたら、中盤が完全に自分の事で、鳩が豆鉄砲的な照れが…。前回は神の前に人は平等である事が論旨でしたが、そこから仲保者キリストによる神と人の和解をひな形に何か考えてみます。

2016/01/17 21:38


以前のレスだけですと「神と人の断絶」という話だけで終わってしまい、「仲保者キリストによる神と人の和解」の話をすっかり書いていませんでした。ですので、今回はフォローとしてダイアリを更新せねばと感じたところです。

そこで一度、私の理解の棚卸しとして、キリスト教の核である、神・罪・救いを通しで書いてみたいと思います。増田から端を発したやり取りの答えというより、一度、切り離された個人のまとめとして書き連ねてみたいと思います。

なお本来的には、これらを教える原点は全て「聖書」であるため、その聖書とは何であるかから証言するべきなのですが、ここはまるっと「キリスト教プロテスタントの世界観」として括弧書きで読んでいただければ幸いです。また、全て根拠となる聖書箇所とセットで出すべきなのですが、今は勢いで書いて、もし情熱があれば後から補足したいと思います。※でも、これは要出典という原則からいくと、かなりギリギリアウトな事をしているのかもしれない。

神について

  • 神はただひとり
    • そして3つの在り方がある。「父なる神」「子たるイエス・キリスト」「人々に宿る聖霊」の3つは、在り方は違うが同時に唯一の神そのもの
  • 天地の創造主
  • 全能であり全知
  • 究極的には「善」であり「愛」である存在
    • 厳密であるとか厳しいというイメージがあるが、悪意は一切持たず、善そのものであり、愛をもって基本的には人を救いたいと思っている
  • 公平であり、罪とは相容れる事が決してない

単に超自然的で、超人間的な存在を「神」と言い表しているのではなく、具体的で人格をお持ちの存在として、いわば大文字の神が存在されると信じています。

人と罪について

人間についての理解を書きたいと思いますが、後半、切っても切り離せないのが人の原罪についてです

  • 人は、神のかたちとして創造された
  • 創造された姿は「よい」ものであった
  • そして自由意思を与えられていた
  • しかし人は神に対する罪を犯したため、罪に堕落した
  • この罪とは、神の制定した正しさから外れたこと
  • そして罪を犯したアダム・エヴァ当人だけではなく、彼らから通常生まれる人類全てがこの罪の性質を持つ事となった
  • 罪がもたらす結果とは、義なる神と引き離されて、滅びること

社会的道徳的な善悪ではなく、神(=善)に背くことそのものが、罪と呼ばれました。
それは神が善であり、その善なる神が定める正しさとは違う方向に向く事、というか拒否と否定だと理解しています。
(ですが「罪の結実としての道徳的悪」への自覚が、遡って原罪への自覚のきっかけになる事も多いと思いますし、私もそうでした

救い、和解について

  • 罪によって滅びにおかれた人が、自分で自分を救う事はできない
  • 神は聖い方で罪そのものは嫌われるが、しかし同時に愛であるため人を救おうと考えている
  • そのため、罪の清めのために救済を計画された
  • 人間の罪の身代わりとして、罪を知らない方を犠牲とする事で贖われる
  • 神は自身の子を完全な人間として、罪の贖いのために遣わした
    • 生まれた子こそイエス・キリストである
    • 受肉したキリストは、肉体を持ち、普通の人と同じように人間の弱さを知っていたが、罪の誘惑に陥らなかった
    • 真に神の子であり、真に人であった
  • キリストは、全ての人の罪の贖いのために、死んで甦った
    • これにより人の罪は全く「赦された」
    • 相変わらず人は不完全であり、神の完全さとは遠いが、キリスト・イエスを通して罪の赦しにおいて神の和解を得る事が出来た

人と神が罪によって断絶されただけで終わったとは考えません。神自らが送ったイエス・キリストの死による贖いによって、人は神との和解を受ける事が出来ました

人の肉体に宿る御霊

  • 先ほど挙げた通り、神の在り方のもう一つは「聖霊
  • 聖霊は人間に宿り、人間に働きかける
  • 聖霊の働きかけによって、人間は罪を自覚する
  • 人間は自分の力によって罪を悔い改めて信仰するのではなく、聖霊の働きによって悔い改めに導かれる

さらには、聖霊なる神が人間に宿っています。人間は自分の力により信仰したり、自分の力によって和解を勝ち取る必要はなく、またやろうとしても行えません。聖霊の働きが先に行われて、それを受け取る事で神を信頼する事が出来るようになります。

最後に、神への応答

  • 私たちは単に「赦された」「一方的に罪を忘れてもらった」だけの者である
  • けれど、赦された「先の生き方」として、キリストを手本として彼に倣うようにありたいと私は願う
  • たとえばそれが兄弟愛
    • 救われたものだからこそ、神の前に互いに等しく、互いに愛を示す
    • しかし人間だからこそ、神の前に互いに等しく罪の根をもっており、お互い様
    • けれども、罪そのものは許容や妥協をする対象ではない

そう、「完全なる神と不完全な人間」という対置の中で、それでも私たちは受肉されたキリストを手本とするという「新たな選択」が示されたと考えます。これは二分法そのものから抜け出したワケではありませんが、不完全で終了ではなく、自分自身の力や努力ではない全く神の恵みと計画により来る世では完成されるのだろうなと思うのです。

私の中のkash06さん
http://anond.hatelabo.jp/20151009002102
ここから先は、一歩も二歩も踏み込んでしまうので、外していたら宜しくないな…と思いつつ、書きます。
先の両増田に現れるような「ウチとソト」「上と下」という感覚の違いや、あるいは相手の立場を読み違える原因はあるのでしょうか? 人として互いに等しいという前提条件を心から土台に据えた上で、「それでも人間の限界をわきまえる」ようなキリスト教徒的な世界観。ここが共有されていないと「人間の限界や領分を戒める自省・自制」の筈の言論が、まるで他者を糾弾するように見えたり、あるいはウチを見下げてソトを利するように思われるのかもしれません。
しかしそれだけではなく、実際我々は不完全な人間であるが故に、中には本当にウチの攻撃になりかねなかったり、自省が過ぎて他者を縛る事も日常的に起こしてしまっているのではないでしょうか。
結局は、常にケース・バイ・ケースで事を見つめて、何を論じているのか、属している宗教についての対話なのか、それとも個人が帯びている政治性についてなのか、知識に関する情報のやり取りなのか、一緒に混ぜないで対話をするしかないと思います。

(そして極々個人的な感想ではあるのですが、平等でフラットな言論空間なら冷静な見極めが出来るのかといえば、私は必ずしもそうは思わず、むしろ「普段ならじっくりなんて読まない話だけど、知り合いの○○さんの手前、ちっとは耳を傾けてみようか」みたいな現実的な抑止力の方が、むしろ歯止めになる事もあるのが人間社会なのかもしれないとも思うのです。しかし、それを言ってしまうなら、なぜ私は本名を隠しkash06を名乗って、このWeb空間でこんな事を書いているのだろうか。いや、書き残す事に個人的な価値と満足を感じているだけですよ。

私信

カッコつけるのは、もうヤメだ。ダラダラと生存報告。(仮)

お勧めの本があったら教えてほしいです…と言いつつ積ん読が山をなしている状態なので、もし教えてもらったとしてもすぐに着手できるわけでなないので極めて言いづらいのですが…

2016/02/01 00:38

id:wattoさまへ
ブコメ感謝いたします。
自分は…実のところ宗教学・キリスト教神学は全く疎く、教会の学びも信仰生活を身に付ける事がメインでしたので、恥ずかしながら現代的な解説書は全く知りません。言ってしまえば、直接には『聖書』自身に学ぶように習いました。しかし、自分の信仰の足下を確かめたく、全くの独学で読んでいるのは『ウェストミンスター信仰基準』、『ジュネーヴ教会信仰問答』、それから少しだけ解説書に突っ込んで『使徒信条講解』(以上、全て新教出版社)辺りになります。

ウェストミンスター信仰基準 (新教新書)

ウェストミンスター信仰基準 (新教新書)

ジュネーヴ教会信仰問答 (新教新書)

ジュネーヴ教会信仰問答 (新教新書)

使徒信条講解 (新教新書)

使徒信条講解 (新教新書)

と、ここまで紹介して、はたと気が付きました。どれも概要書ではあるのですが、どれも教師を前提とした教科書のような気がしてなりません。

ですがまぁ、私たちブログ界の人間が生活の言葉としてネット上のエントリーたちに向かい合う時、高度で上手な現代的意義を提案する書よりも、連綿と語り継がれた共通認識を示す書を足がかりにして、ようやく自分の回答をするくらいが真にリアルで丁度良いような気もしておるのです。
取り急ぎ、こんな弱々しい回答にて失礼いたします。

明けすぎて、申し訳ないほど、おめでとうございます。

さて去年言及いただいた私の中のkash06さんについて、引き続き考えていたのですけど、やっぱり神と人の断絶と和解について中途半端に書き残しても、「なんか、そういう感受性もあるんだ」程度の話になってしまうなぁ…って思ってきたのですよ。

本当は、キリスト教プロテスタント)に於ける「神・罪・救い」の性質について、あるいは「神、人と罪、イエス・キリストと和解」について、信仰者の立場から、箇条書きでも構わないから一度まとめてみる方が良いんじゃないかって思えてきて。けど、こんな基本的な事なら、世の中にいくらでも良書があるし、あるいはインターネット上でもちゃんとした教会の訓練を受けた本職による解説もあるのだから、私が敢えて書く必要なんて…とも思って揺れてるところで。

いま、改めて使徒信条と教理問答に再入門してるので、その理解として書いてもいいのかなぁ…でも、その時間をもっとお仕事に使わなくちゃとも思って、何とも悩み中。