大関ヶ原展に行ってきました

江戸東京博物館で5月17日まで開催されていた「大関ヶ原展」へ、終了直前の16日(土)に行ってきました。

行こうかどうかは完全に悩んでいて、大学時代の後輩と「どうしようか」と話していたのですが、磯崎愛さま(id:florentine)のエントリー(叉似刃(CYBER)本丸琴弾之記二 大関ヶ原展いったきたよん♪ - がらくた銀河)を読んだら行く気がどんどん湧いてきまして。相談していた後輩からも「行っておきませんか?」とメールが来たので、飛びついて行って参った次第であります。

音声ガイドは借りようかと思ったのですが、大きなお札しかなかったので今回はパス。あぁ、いま思えばナレーターが杏さんだったので「本部、本部、応答願えますか? ただいま関ヶ原の合戦について取材をしているのですが、この時代の〜〜について追加情報をもらえませんか?」などとつぶやきながらガイドをオンしたかった…。

館内の展示は屏風・絵巻からスタートし、まずは視覚から関ヶ原に入り込ませます。私あまり絵の見方がわからないので、ここは眺めただけ。
とにかく本命は書状。
この時代の書状でドロッと面白いのは「そちらの情勢を知らせてくださり、誠にありがとうございます」な類のお礼ですな。信長包囲網の時の細川藤孝とか。今回は徳川家康畿内の情報を流す京極高次とか。うへぇ、スリル満点だな。

合戦の起こる慶長5年ともなると、大名同士の交渉による緊張が日本中に張り巡らされるので、大名好きには何とも面白い書状の数々だったかと思います。

しかし、私の個人的なベストは「京極高次家臣連署状」。
西軍に従って北陸まで進む事になった京極高次ですが、自分以外が美濃へ転進するや、琵琶湖を渡って所領の大津に戻り、東軍として籠城してしまいます。その際に琵琶湖を渡る船を用意した大津百艘船の水夫たちへの感謝と礼を給した書状です。突き詰めれば、在地の職能集団を掌握していたから出来た動きであって…やっぱり足固めって重要だよね…。

それから見た目のインパクトで言えば鎧。徳川四天王にしろ、西軍諸将にしろ、彼らが着た現物と言われる鎧が集まっているのですから。通常ならば各地の博物館でエース級の展示だろうに、それが一堂に会すればそうそうたるものでした。

ものすごく大ざっぱな感想はこんなところ。こうやって振り返ると、自分はあまり人物史に興味が無いんだろうな…と思ってしまいました。政権の奉行人と、政権に参加する諸勢力との対決が表立ってしまう時点で、やっぱり政権維持は厳しいッスよね。(関東公方方面を眺めながら…

再び「信じるとは選択から始まるんじゃないかな」と「存在が存在するって奇蹟的だけど観測者か証明者が欲しいよね」について

無宗教な自分が辛い」http://anond.hatelabo.jp/20150330001506 という増田を読みまして。

どうもはじめまして、はてブ在住キリスト教徒のkash06と申します。
昨年聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。一言で言えば「信頼できそうだと選択した」という記事を書いたものでして、この度もついトラバさせていただきました。

今回は元増田が問題にされている「今更、信仰とか難しいし」問題、それから「存在の消滅」と「時間や空間に左右されない、存在の証明」について、私なりに考えてみました。ですので、キリスト教の基本的な原則「神・罪・救い」についてはほとんど触れずに、かつ哲学的なアプローチも一切出来ないので、ほんと「こういう風に考えて生きてる人もいるんだー」的な受け流しをしていただければ幸いです。


さてブコメの方は「無宗教」という言葉に反応が重なってしまいましたが、元増田が問題にされているのは「自分が死ぬと、その瞬間世界は消えて無くなり、「全てが無かったこと」になる」「今すぐにでも気軽に消えてしまうようなあまりにあっけなく、脆い物語」という「存在の消滅」が悩みであり、それは「あなたにだって宗教心があるじゃないか!」といくら言われても、それが消滅の問題を解決していない。だからこそ辛いと書いているのだろうな……と思いましたところです。

存在の消滅について、自分には信じる宗教がないから…と仰りつつも、「何を信じたらいいのかわからないし、後から何かを信奉することがとてもむずかしく思える。」のも、わかります。シンデレラガールズ川島瑞樹さん風に言うなら「わかるわ」です。わかるわ。

して、元増田から大きく2つの質問がありました。
「どうやって信じたらいいのかがわからない。」、「俺はどうしたらいいんでしょう。」

共通してアドバイスをさせていただくならば、最初から信じたり、高度に知る事はないと思います。あえて書けば「出会う」「受け止める」「待つ」はいかがでしょうか。

宗教を信じる心境に達する事が「信じる」ではないと考えています。それは宗教に対するセンスや感受性が高い人には到達できる事でしょうが、普通には難しい……かく言う私にもセンスなどありません。元増田が書いたように「安心と生きるための行動基準」として、主体的に選択するかどうかではないでしょうか。
個人的には以前、このように書いてみました。

「信じている心境に到っている」かどうかより、「これからその方向で行きたい」という頭の方で考えた選択から始まったのだと思います。
http://d.hatena.ne.jp/kash06/20140830/1409389311

とはいえ「知る」「勉強する」が必ずしも「信頼」に繋がるとも限らないかもしれません。
元増田が(そして私が)想像するだけで、その深い無意味さに震えてしまう「存在の消滅」について、あるいは反対に「永遠」や「絶対的な存在」について、いずれかの宗教の極々基本的な考え方を知った後、すぐにそれを受け入れる事が出来なくとも、ぼんやりと受け止めていく中で、信頼できる時やタイミングが来るのを待つのはいかがでしょうか。
それは知識を得るだけではなく、何かの機会で知り合った教会やお寺で、率直に質問してみるのも良いかと思います。私も基督教徒ながら、家の法事で和尚様に色々聞いてみたりしてますが、今の方々は現代人の迷いに、あまり押し付けることなく基本論みたいのも気軽に教えてくれますね。もちろん教会でも大歓迎です。(心構えなんていくらでも出来てるので、変に驚いたりしないですから

…さて、キリスト教くさくて申し訳ないのですが、「伝道の書」という箇所が好きなんですよ、私。

第3章1節〜11節
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生まるるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くのに時があり……(中略)……神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。

全部がわからないのは確かだけど、何もかも全てがわからないとか、信頼できないわけじゃないと思うし、それには時があるのかもしれません。
私はキリスト教の事しか伝えられないのですが、「自分のために神があらかじめ誕生から終着を用意してくれているかもしれない。存在を証明する主観が消滅し、自分を観測してくれていた他の人もいずれ死んで消滅しても、永遠に存在している神が、私の存在を覚えて、永遠に証明を引き受けてくれるのかもしれない」という思いを「選択しても良いかな…」って考えられる日が来たら、その時にいつでも始められるものですしね。

もしも全く的外れで、何の手助けにもならなかったら申し訳ありません。
でも何より、元増田が何らかの平安が得られる事をお祈ります。

あけましておめでとうございます

昨年末に盛り上がりました増田かまぼこ論壇かまぼこAdvent Calendarを受けまして、正しいはてな民な私も勝手ながら、年始に安くなり始めた高級かまぼこを買ってきました。
スーパーで、普段は見ないようなかまぼこの成分表示を見比べながら、何に満足というと「あぁ、俺って見るからにはてな民だな…言い訳できないほど、はてな民だ」という自嘲めいた満足。

せっかくだから鈴廣の…でも、この「でんぷん無し」仕上げの紀文でも…と考え、結局、後者のでんぷん0%かまぼこを選択。
これを確か11mmだな。よし、11mmで切って…意外と分厚くなるんだな。でも、かまぼこ単品で味と歯触りを主張するには好ましいんじゃないか、と思いながら、えいっと食べると。

うまい。
これは確かにうまい。魚だよ、魚の製品だよ、これは。
それじゃ今まで食べていた、ほんわりとした謎の食品は何だったのかと言うと、それはそれでうどんそばに合うんだけれど、逆にいうと単品で味わうなら違うアプローチの高級ラインが良いって事ですかね。

そんなわけで、夜が明けたら通常営業。せめて今夜は久々に日記でも残そうと思いました。

高山右近の寺社破壊伝承への個人的な理解

http://www.asahi.com/articles/ASGC835Z9GC8UHBI014.html
高山右近福者認定が進むかというニュースが話題になってました。

はてなブックマーク - 高山右近を来年「福者」認定か バチカン高官ら示唆:朝日新聞デジタル
はてブで右近の寺社破壊について言及されていたので、ほとんど調べる時間は無かったのですが、私の理解をメモしようと思いました。

まずwikipediaの記述を元にされているようなので、参照したいと思います。(2014年11月9日現在)
高山右近 - Wikipedia

だが右近はキリスト教徒にとっては名君ではあったが、神道氏子・仏教徒にとっては父・友照同様に暴君だったとする記録もある。友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。

この「記録もある」、「寺社の記録には…記述がある」というのがポイントでしょう。wikipediaでは、それぞれ記録があるという事まで触れてありますが、それぞれの史料への検証、研究自体には言及されていないという立場なのかと思います。*1

手元で用意できた参考書が2つしかないので、あくまでも私の拙い理解ではありますが、メタブではこのように書きました。
はてなブックマーク - はてなブックマーク - 高山右近を来年「福者」認定か バチカン高官ら示唆:朝日新聞デジタル

高山右近の寺社破却については、切支丹という面だけを拡大解釈している節があると思う。これは日本側、カトリック側双方共に。織田氏に属する一武将としての行政や中世の慣習も考慮したい。 http://hdl.handle.net/2065/30131

Web上でも読める参考文献として「高山右近の寺社破壊に関する一考察」(山下洋輔.2008)を挙げました。
早稲田大学リポジトリ
先行研究の整理でも書かれている通り、「寺社の破壊」が伝承されている以上、記録として受け止めるべきではありますが、同時に記録への検証も伴う必要があると考えます。気になる箇所として下記のようなものがあります。

天正年中、高山右近による焼討にあったという寺伝を残す寺社は多いが、天正期以前の文書がかなり残っていること、仏像などの状態から焼討された形跡のない寺院も多いことを、天坊幸彦氏、臼井信義氏などが指摘している。

wikipediaには「ほとんど残らず」「異常な事態に陥った」とまで断定的に書いていますが、真逆の指摘もなされていると認識できます。ただし、天坊氏、臼井氏の調査・指摘も未読ですので単なる孫引きの認識ではあります。

友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った

さて、様々な視点から寺社破壊について検証がされていますが、簡単に論点を挙げますと「寺社破壊そのものが、そもそも中世〜戦国期の領主の政策の過程として一般的に行われる事態だったのではないか」(=切支丹大名である事に意味を持たせる必要が薄い)、「右近個人の平時の政策ではなく戦災として起こった事件ではないか」という点があると思います。
個人的には前者について「安堵状が発給されている」事を理由に、「寺社も安堵しているではないか」という安直な理解をしていましたが、これはもう一つ理解を深める必要があったようです。「安堵している」こと自体が、寺社への保証を領主が下しているわけで、裏を返せば「破壊する」ことも含めて統治の内に及ぶと考えられます。しかし、ここで思い出すべきは中世の寺社が一つの経済体であり機能と実力を持っていたのに対して、近世では江戸幕府の統治の元にある…つまり戦国期とは、その統治へ向かう過渡期であった事ではないでしょうか。
その上でブコメに戻りますと「織田氏の一武将として」つまり、戦国大名としては織田氏全体の政策の中に、右近の施策を位置づける視点も必要だと思われます。(特に、大友宗麟の例と「並べて」右近について言及される事がありますが、日向全体を支配する戦国大名そのものであった宗麟と、戦国大名織田氏に外部から帰属した畿内武将の右近を、そのまま横に並べて括るのは少し保留したいと思っています)

このような寺院は、地域の領主層や住民にも影響力を持っている。右近の寺社への姿勢や「焼き討ち」は、茨木城主中川清秀との地域支配をめぐる係争地の掌握と不可分と考えることが重要で、「あった」「なかった」という問題ではない。右近による寺社破壊や「焼き討ち」の結果について、高槻城主個人の宗教観や権力形成のみによる評価は一面的である。地域社会の動きなどをふまえ、検討を加える視点が必要ではなかろうか。
高山右近 キリシタン大名への新視点』「序章 総論 高山右近への視点」(中西裕樹)
宮帯出版社/商品詳細 高山右近 キリシタン大名への新視点 中西裕樹 編

歴史学は結局、記述に対して常に検証・検討が必要なんだな…というありきたりな結論に到るわけであります。

*1:これ自体は、wikipediaがweb上でのプロジェクトであり歴史の学会・媒体ではない事の限界であるかと思うので、踏み込んであれこれは言いません。

こう、毎日ブクマを付けていると、それなりに☆をいただく事もあったりするのだが、自分が果たしてはてな内でも「あぁ、何となくこのオレンジ色見た事あるかなぁ…?」くらいの微かな記憶に残ってるものなのか、ちょっと気になった。
まぁ、気になったくらいは人としてよくある事だろうし、それ以上掘り下げる気もないので、そのくらいは見逃しておこう。(こんなよくある好奇心で、自己顕示欲の自己言及芸を大々的に仕掛けたり仕掛けられたりする方が、それこそ気にしすぎである

一言で言えば「信頼できそうだと選択した」

聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。 - カッコつけるのは、もうヤメだ。ダラダラと生存報告。(仮)の続き。

前回は主に会ったこともないお方をどうして信じられるのだろうに対する返信として書きました。元増田はまさにタイトルの通り「会ったこともないお方をどうして信じられるのだろう」という点を不思議に感じているのだと思いました。
それに対する私の答えは大まかに「存在を知る事や実在性を信じる事よりも、彼を信頼する事こそを『信じる』と呼んでいる」というものでした。この信頼とは「神が善なる存在である」「その善から外れた(罪)全ての人間がイエスを通して赦される用意がされている」事に対する信頼です。つまり「私たちは誰もがイエスによって救済されうるという信頼」を、信じると呼んでいる面があるという事です。

昨日はここで時間切れとなってしまいましたが、今日も私の個人的な感想を書いてみたいと思います。これは個人的な経験と感想です。宗教学的な観点も無いし、キリスト教的な立場からの教義の説明にすら満たない、極めて個別具体的な感想であり、取るに足らない1ケースであると思ってください。
なお私の背景としては、キリスト教とは全く縁のない一般的な家庭に生まれ育ち、なぜかキリスト教徒になったプロテスタントの一信徒です。

さて、元増田のもっと根本に近い質問はこちらなのではないかと思いました。

おそらく彼らは個々人のやり方でイエス・キリストを信じる強い根拠を手に入れたからこそ、キリスト教徒でいられるのではないかと思う。私はその個々人がその強い根拠を得て、信じることができた、その人が真にキリスト者になれた過程を知りたい。

元増田がこれを書いた時点での考えに即して読むならば、「正確なイメージをする事が出来ない歴史的な人物に対して、実際に信じているという人は、どのような根拠によってその信じる心境に至れたのか、過程を知りたい」という事になるかと思います。
私の前回の回答に即し、信じるという言葉に信頼という意味を加味すると、この質問は「(具体的なイメージの有無は別として)何故、あなたはイエスをキリスト(救い主)として信頼しようと思ったのか」になるのでしょうか。
この時点で半分くらいの回答になっているかもしれません。つまり捉え方の力点が変化しました。具体的なイメージを伴わないにしても、人物像が外れていたとしても、自分を救いうる方だと信頼するかどうかがポイントなのかな、という点です。

そして残りの半分くらい「過程を知りたい」にも、個人的な経験を書きたいと思います。

信じるとはどういう行為なんだろう
では、まず元増田の続編を確認しておきたいと思います。

そもそも信じるということは自明ではないものを真だとみなしてみる行為なのだ。はてブでは数名の方がAmazonで商品を注文することや通貨の価値を信じる例を挙げられていたが、生活をおくる上で直接出会ったことのない人との取引や自明ではない価値を信用するという行為は必要不可欠な行為である。つまり、信じるという行為は生存する上で誰もが行っている行為ということができる。

実はこの時点で「信じる」の中身に「信用」という意味が加わってましたね。
(語学や経済に強い方ならきっと「Credit」の語源「Credo」に信仰という意味があり…という話に繋げられるのかもしれませんが、私にはちょっと手に負いかねるので止めておきます。)

元増田はこのように例示されています。

ひとつは、そもそもそれを信じるということがその人の生活を支える基盤となっているかどうかである。キリスト教の家庭に生まれて子供の頃からイエスをキリストだと信じることが当たり前だと考えているキリスト教徒がこれにあてはまる。地動説といった科学的学説にしても、それを真とする社会に生きているがために、検証したことはないけれども真だとみなしている。

キリスト教の家庭に生まれて、キリスト教的な考え方が当たり前になっていたとしても、実は「イエスが自分を救うと、極めて個人的に信頼している」かどうかは、また別なようです。まさに、ここに「生活的な事情」と「信仰」の違いがあるのではないでしょうか。

なお科学的学説については、暫定的な仮説を積み上げて現実を説明しようとしている一連の働きだと思うので、「検証したことはないけれども」というより「誰か専門家の検証そのものを信頼している」で説明がつくかなと思いました。
また貨幣については、実際に目の前で交換も出来るし、交換できる現実に即して価値も変動しているので(だからデフレもインフレもある)、こちらは現実先行型なのかな、と。

少し前に戻りますが

自明ではないものを真だとみなすことが信じるということなのだとして、あるものを信じてあるものを信じないという区分けはいかにして行われるのか、人は何を判断基準として信じるという行為を為すのかという疑問にいたる。

何について信じるか、という観点が加わるかも知れません。
私はいま椅子に座ってこの文章を書いていますが、私を支えるという効果については信頼しています。また、荷物を置く、乱闘時に殴る、隕石落下によりサバイバル社会と化してしまった近未来日本で薪の代わりに火にくべる程度の効用についても信頼してます。
ですが、私の罪を赦すという面については別に信頼していません。
自明でないもの…論や価値についても、ある使い道については信頼も出来るし、検証によっては信頼できないかと思いますが、同じく救済には関係ないと思っています。
そして、もしイエスについて考えるのならば、それが自分にとって「自分の罪をそこに預けてしまおう」と思えるかどうかを基準にしてはいかがでしょうか?


そして、私の個人的な経験を最後に。
私が最初に思ったのは「自分が罪深い考えを持っているのは、きっと本当だ」という出発点でした。そしてターニングポイントになったのは「自分はまだ神を信じる心境がわからないし、当然、そこに到っていないけれど、自分の罪を持ち続けるより預けられるというのなら、それをしてしまいたいなぁ」と考え、そこからある程度時間が経った頃にふと表明した事でした。
「信じている心境に到っている」かどうかより、「これからその方向で行きたい」という頭の方で考えた選択から始まったのだと思います。

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである(ローマ人への手紙 9:9-10)

なお、自分の選択をキリスト教的にも後ろ盾してくれるかな…と思ったのは、聖書のこの箇所でした。

既に信じるための環境が用意されている中で、主体的に選ぶこともなく信じるということは、本当に神を信じるということ、イエスをキリストだと信じるということになるのか。

鋭いご質問ですが、私はむしろ主体的な選択の中に最も信仰が現れたのではないかと思います。

では、どうして何故そのように「信頼してみようかな」という選択をする気持ちになったのか、根拠がどこなのか……ともう一段掘ってみますと…。もはや堂々巡りですが、そのように受け入れられたからです。この点は、私の残念な知識では、このようにこの身に起こったのです、としか言えません。

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。(伝道の書3:1)

この辺りはfinalventさんの記事の方が、うまく日本語になっているので、私から申し上げられる事は以上であります。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2014/08/post-9dc8.html

まさに生きているサイドの私にとっては死をまたげないので、その分限を超えて出会えたというか、今の立ち位置から動けなくても方向だけでも向き直せるならば、そこが始まりなんじゃないでしょうか。遅すぎる事もないし、早すぎる事もないと思います。

今日はちょっと更新できそうもない。
久々にはてダにじっくり自分の考えを書いてみたけど、改めて自分が普段から思っているけど考えにまでまとまってない事をまとめるのは楽しいなぁ。
はてなで見かけるような賢人には遠く及ばない程度の知識と意識ですけど、書けることがあるのは嬉しい。(それがキリスト教の事だとは思いもしなかったけど