はてなクルセイダー(←嘘・大げさ・紛らわしい)

具体例はもう載せませんが、やはり「愛」や「自己肯定」をめぐる言説は、今日もblog界・テキスト界で繰り広げられているのですが。みんな頭良いから可能性としての宗教というファクターは指摘しつつ、でも、多くの場合それは選択されないだろうと、みんな薄々気づいてるワケで。(苦笑
いや、敢えて言おう、それでも福音だ。
最強のカード「あなたは既に愛されている」を最初から切ることが出来る。それも創世から。もうちょっと具体的な事例ならば約2000年位前から。…まぁ、そっちの具体例だと(この世に現れた姿で言うならば)「前職が代々続く個人経営の工務店職人というか大工、30代の恐らく筋肉質なヒゲマッチョ系のユダヤ人男性*1」から「愛されてるんだ!」と言ったところで「嬉しくねー!」と言われてしまったら、それまでなワケで。あ、いや、当然ながら冗談だが! そこでオタ訴求力の可能性を探ってみるか。…そういや、当時のユダヤの風習からいくと女性の婚約はだいたい15歳前後らしく。いや、そーなってくるとヨーロッパのカトリックで大衆にもてはやされた「女性的かつ聖母なマリア様が見てる」観を打ち破って「いきなり天使とか現れて困っちゃってるマリアたん(15)に(;´Д`)…ハァハァ」という新解釈を打ち立てて「愛だね」とか言われても……やっぱ、それはそれで困る!
…ごめんなさい、どう詫びればいいかわからないような冗談はさておき。
よくわかりやすいと思う、ラヂオさんのブックマークで集められてる記事で多く見かける「人を愛せないヤツが愛されるワケないだろ」理論の壁、「いや、愛などわかりません、だから欲しいのですが?」という人たちにこそ、少なくとも理屈の上ではドンぴしゃマッチングでしょ。「あなたは既に愛されている」のですと。だからこそ基督の福音を伝えなくてはと思うのですが…。そもそも「人は自分の力で愛することすら、無理!」という前提に立てば「まずお前から」圧力でナイーブなダメ人間を圧殺することはないでしょうし。
あと、少しリアルな利点を上げるなら、よく非モテ脱オタ話に見られるような「世間と戦うか、世間にあわせるか、どちらかを選べ」的な強制2択から、ほんの少し逃れられると思うのですが、どうでしょう。「あっっはー、でも考えれば、最大の問題は魂の救いじゃねぇーの」みたいなセカイ系だと言われても、それはそれで、狭い選択肢から逃れられる視点が与えられるのは悪い事じゃないとは…思います。
…うーん、不勉強だから、真面目に神学とかに理解の深い人にはついてけないし、でも、自分の地に足着いたレベルで、福音とネット系の話題をフュージョンさせるという、まぁ管見でありますが、あまり他の人がやってなさそうなラインを狙ってみたのですが…。ただ、ものすごく頭いい人に「いや、キリスト教じゃなくてもイイジャン」と論破されても、わたしの能力では反論しきれないだろうし、あんまやらないほうがいいのかなぁ……。

*1:もちろん、ナザレのイエス