自分の日記を読み返したら、ちょっと昔の自分の方が凄い頑張ってる気がしてきました。はてな的にね。
2005-10-02 - カッコつけるのは、もうヤメだ。ダラダラと生存報告。(仮)
なんと、会社の師匠のところに弟子入りする前日の日記を発見。懐かしいです。今は別フロアになってしまったけど、昨日もお互い土曜出勤で顔を合わせました(苦笑

聞くところによると、明日、異動があるそうです。で、ウチのトップセールスの弟子、否、アシというか、足になりそうです。
……やば、どうしよう、恐くて、マジ?
遅ればせながら、私も皆様並に働くので、もう、よろしく。というか、労働時間とかじゃなくて、能力が、無さ過ぎて、こわい、ッス。

ちょ…俺、怖がりすぎだろ! 言っとくけどアンタ*1この後、さらに色々あって…もう無駄にマルチな期待が掛かるからね!

で、その次のエントリ。

才能、能力について「成長」というモデルではなく、「個性」として宿っている原石を見つけ、磨くという認識になっている、という指摘は他のテキストなどでもお馴染みですね。ひとつ気づいたのですが、逆に言えば、才能の可能性をたまたま信じていれば「個性」派になるワケですが、才能の可能性も成長の可能性も、たまたま信じられなければ、それが彼ら(≒我々)の自己肯定感の低さ、行き詰まり感へ繋がるんじゃないんでしょうか。寄って立つ土台がないのに、天井だけが頭上を押さえつけてるのですから。

上の日記とは全く別な気分で書いたのですが、無駄に世の中を恐れすぎな自分のことをよくわかってる一言だったと、今は思います。

そして今は…そうですね。上に書いたとおり、最近は土曜出勤やら自主的残業とか、やたらと仕事場にいます。実は、上で書いた師匠のトコで2年半修行した後に、まっっっったく別部署に飛ばされましてね。
で、今はそこで実績を上げたくて仕方ない感じです。いや、全く上がってないワケじゃないんですが、とにかく残したいんですね。何かを。
正直に申して、自分には何にもないから、仕事で数字を残したり誰かに褒められたり喜ばれたりするのが、何より嬉しくなってしまってます。…と書くと「もういいよ、リア充め」と言われそうですが、そうではない気がします。多分、ただ単なるaddictになってるダケでしょう。仕事を克服したんじゃなくて、依存する先が仕事になっただけなんだなぁ…と思います。

http://shirokumaice.sakura.ne.jp/wp/archives/253

一つの領域で褒めて貰ったり、単回の業績を評価されたり、一人の人間に好意を持ってもらったぐらいで充ちるほど、この心の大穴は生易しくないようにみえるのだ。そして、この根本的な自信の無さと無価値感は、有頂天になっている瞬間には意識されないけれども、そうでない時にはありとあらゆる思考や意識へ染み出て、ここまで列挙してきた諸々の防衛機制をはじめとした、社会適応の偏りや制限の要因となる。

なるほど。
3年掛かって得られたのは、わずかな安心と、ただの新しい依存でした、って感じかもしれません。もちろん、少しは良い方向に適応できつつはあるので、自分の現在の全てを否定する気は全くありませんが。「根本的な」と言われてしまうと、何も言えません。

細々と引用しようと思いましたが、3年半前の自分の日記と、シロクマさんの新しいエントリーを全て読んで比べるのが一番しっくりくる気がしてきました。とりあえず以上です。

*1:当時の自分