blogあるいは近頃だとtwitterで色々発信する事について。うまく活かして便利な生活を、もしくは楽しいライフを送っていますよ、というきらびやかな理想例が席巻することで、遅れてきた人たち(僕たち)もどんどん参入して、ユーザーが広がる、という路線があるかと思います。
ところが、それらのサービスを利用して「コンテンツ」を楽しむ人・活かす人と、「コミュニケーション」を楽しむ人という分断は、結局のところどうしたらいいのでしょうか。

真面目に役立つ情報でも良いし、面白いネタを流せる人でも良いですが、まずコンテンツを生産できる人がblogなりを使っているのが思い出されます。一般的に読者のいるページですね。たとえものすごく狭い領域の話で、10人くらいのフォロワーしかいない小集団であっても、つまり生み出せる人です。
それから、コンテンツをちゃんと受信できる人。自身で生産はしなくても、集めた情報を活かす人です。
そしてコミュニケーションとしてサービスを使う我々。もちろん、どんな生産者であってもネットサービスで身近な人とコミュニケーションを取るのは当たり前でしょうが、逆に当てはめて言えば、他人が見るべき何かを生み出せるワケでもなく、他人が生んだ何かを見て活かす能力もないけど、ただただコミュニケーションの為のネタ、コミュニケーションの為の日記を、ただ送り出す我々です。ネタといっても、一瞬だけ何かを共有できれば良いので、よそのurlを1行載せて「ワラタ」とだけ書いた日記であっても構わない、そんな関係の為の行為です。

そんなものはネット黎明期から…というのはもちろんそうですが、誰もがネットに接続できる今だからこそ、というのはあるかと思います。「今」って言っても5年くらいの長いスパンで「いま」なんですけどね。

全ての人が何かを生み出せるなんていうのは酷い勘違いで、せいぜい両手振り回して届く範囲の人とどっかから借りてきた話をして何とか空白を紛らわしている人の方が、世の中には多いと思うのです。(というか、自分がそうなので、世の中の大半の人がそうであって欲しい!!
ただ、このコミュニケーションというのも、結局は自分も周りも社会人になって、段々と30代に足を踏み入れる人も増えてきて、毎日が忙しくなったりして…というウチにやりとりも減ってしまう。新しかったハズのwebサービスも新鮮さが薄れ、やがて更新も途絶えてしまう。周りの人が減ると、それがさらに意欲の低減に拍車を掛けて、一人一人のおしゃべりすら減ってしまう。返信される期待が減ることで、全体の発信がさらに減ってしまう悪いサイクルに入る。

となると、分断のセカンドステージは、コミュニケーションをする時間すらないのだから、一方的な解釈と正義感による不正の断罪…要は炎上くらいしかないのかなぁ、とか何となく、根拠もなく考えてみました。
炎上の時は、お互いのプロフィールを確認する必要すらなく、ただ押し寄せるだけで「我々」感が醸成されると思われるので、これは流行るだろうなぁ。虚しいなぁ。


こんな事を考えながら、自分がどうして、ここをまだ閉じてないのか不思議です。書くことに意味もないのに。