コミュニケーションがとれない、って主題なのに、文中リンクをするという矛盾エントリーを書いてみました

OSAKA ELECTRIC AND ROCK DIARY :: 人とぶつかるということ(コミュニケーションの初歩の初歩)

だから自分がぶつからない理由というのはバカな自分が排除されないための悲しい生存の知恵(そんな上等なものでもないだろうが)なんだと思う。
自分の場合はそんな感じなんだけど、他の人がぶつかり合いを嫌がる理由というのはなんなんだろうか。

私もおおよそ同感です。私のは知恵なんてものではなく、ただ自分が負けるのを避ける卑怯な逃げな気がします。
ただ、TZKさんの視点とは少しズレてしまうかもしれませんが。私が思うに、コミュニケーションの結果に何ら期待をしていないから、その意欲がもてないのかもしれません。TZKさんはぶつけ合った相手を変えられないという例を出されてましたが、私の場合は「どうせ自分は変われない」という感覚が強いようです。
もちろん、TZKさんが例に出されたような「賢いので意見が勝ってしまう」なんていう正しい代物ではございません。
そうではなく、その場での表層的な意見だとか、やり方なんてものはコロコロ変わってしまうのですが、結局、そのコミュニケーションによって私の根本にインパクトというか変化が起こる気がしないのです。むしろ、薄っぺらい私には根本的な法則もなくフラフラしてるだけなので、いくら意見ややり方が変幻したところで、それは何ら「成長」ではない気がします。前か後ろかではなく、ただの左右の偏りみたいな。

何度も繰り返し書いている事になってしまいますが、「(良い意味で)変われる」「成長する」という言葉を信じてないんだと思います。
それは私が個人的にそうなのか、世代的*1にそうなのか、文化グループ的*2にそうなのか、そこはよくわかりませんが。

思うに今の社会というのは高度に知的な社会になった結果、例えば「便利」とか「合理的」とかをぶち壊すようなエゴイスティックな振る舞いというのは自ずと規制されるような方向に行ってるのではないだろうか。

「便利」とか「合理的」の中身が、割と人それぞれだったりして、意外と意見や立場が違う人からすれば「理不尽」なことでも異議を唱えづらいのかもしれませんね。
それぞれのグループが正義を持っていて、表面的に平和な時代だから、みんな倫理的には、ある程度は正義を守れてるんだと思うんですよ。ただ、その正義がぶつかり合ってしまうから一つになれないみたいな。それと、ある程度の自己完結を求められてしまって「他人に迷惑をかけてはいけない」という規制が激しい気はします。
声をあげること自体が邪魔になるなら、それが「合理的」な事であっても邪険にされるというか。
自分も含めてみんな中途半端に優しいから「世の中には歩くのが遅い人もいるし、そういう人だっていてもいいんだよ」とは言えるんです。ただし「自分の隣にいなければ」。「ここではないどっかで、その人たちだけでやってけるのなら」。自分もそんな考えに陥ってる気がします。

話が大きく遠回りしてしまいましたが。自分の持ってるいろんな属性を、それぞれのグループ内で肯定してもらえるのなら、わざわざ異質と対決しなくても「ヲタな自分はネトゲで」「非モテな自分はblogで」…とか適当にごまかせてしまうのに甘えている今日この頃です。そして、成長を信じていないのだから、コミュニケーションに望むことは「時が止まること」と「終わるときは美しいまま一瞬で消滅してしまえ」ってことになってしまいます。

…もちろん、書いているウチに自家中毒的に意見が偏ってきている可能性もあるので、現実の自分はもう少し希望を抱いて、誰か全くの他者と繋がりたいと欲しているとは思いますけど。

*1:時事に気がつけるようになった頃には、日本の退潮しか知らないみたいな。今の20代って、そんなもの?

*2:ヲタなのか、非モテなのか、文学部の落ちこぼれなのか…どれでもいいけど