清原容疑者 ブログに離婚後の寂しさ吐露 NHKニュース

あれだけのヒーローで成功者でも、ここまで心が埋まらない日々を送る事になるとは。人にとっての幸せって、なんと複雑なことか。

2016/02/03 15:04

清原氏のニュースに関して、とにかく80年代生まれの僕らは野球を知ったきっかけが、クロマティなり原辰徳なり、清原・桑田なわけですから、非常にショックなわけです。とりわけ、続報として次々に流れるニュースで取り上げられる寂しさや孤独感は、ひょっとしたら、してしまった違法行為以上にショックだったかもしれません。
これからも様々な続報があるのでしょうけど、私の思いは上記のブクマの通りであります。

人気声優の死:異常なしのはずがEB感染症…難病指定訴え - 毎日新聞

自分は伝染性単核球症を30代の遅さで発症したので、EBウイルスと聞いて症状の苦しさを思い浮かべていた。半月の自宅療養ですら高熱と体力低下で体型が変わったので、まして慢性の難病とあらば…と。ご遺族に慰めあれ

2016/02/03 16:28

今から2年とちょっと前、伝染性単核球症を発症したんですよね。あれ、成人が発症すると38度以上の熱が24時間続くのですよ。
その時、1件目にかかった最寄りの診療所では「風邪じゃない高熱」という謎解きに対して、とりあえず麻黄湯が処方されるという、漢方かよ!という有様でして。ところが体温が40度に上がったまま丸一日も経つと、苦しくてどうにもならないワケですよ。確かバファリンか何かの解熱・鎮痛剤を入れて、自転車でもう少し規模のある行きつけの病院まで頑張って足を延ばしたところ、偶然にもその曜日の先生が臓器だったかリンパだったかのご専門だったおかげで「ひとつ心当たりがある」と言ってくれまして…。
あのEBVの発症というやつは、特効薬が存在しないので、2〜3週間ひたすら耐えるしかないのですね。だるさと痛さと強烈すぎる寒気で、眠れないし寝ても目が覚めるわけです。それでも現代医学というのは大変ありがたいもので、1錠で5〜6時間は熱を37度台にまで下げてくれる薬がありまして、それを1日3錠まで飲む事ができたのです。素敵!
…6時間×3錠? 1日は24時間だし、効果が切れると眠っていても寒気と痛みで目が覚めるわけでして。だから、薬の効果が切れている間は、とにかく耐えるしかなくて。実は毎日会社へ電話だけはしていたのですが、翌日に電話を掛ける時こう思うのです「まだ24時間しか経ってないのか! 治癒まであと何回この1日を繰り返すんだ!」って。結局、治るまでの3週間弱で10kgくらい痩せて体力ごと吹っ飛んだのでした。
ですから。松来さんの病名を知り、症状について調べた時には、きっと大変お辛かったろうと強く思ったのです。まして慢性の症状として、襲われていたのなら…。
そんな事があったので、非常に差し出がましく自己語りではありますが、今回私はブコメを残す事にしたわけです。どうかどうか、ご遺族の願いが何かの実を結びますように。そして、いつか慰めがあるようにと祈ります。

「神・罪・救い」のアジェンダと、言及いただいた二分法について

恥ずかしながら、このように言及を頂いておりました。
「完全なる神と不完全な人間」という二分法が、我々の心を楽にしてくれることがあるんじゃないかと思った - しいたげられたしいたけ
わたし、本当は大したことのない単なる臆病者なんですけど、折角ですからお言葉はありがたくいただきまして…。

で、こんなコメントを返しました。

「完全なる神と不完全な人間」という二分法が、我々の心を楽にしてくれることがあるんじゃないかと思った - しいたげられたしいたけ

面白い話になりそうだと油断していたら、中盤が完全に自分の事で、鳩が豆鉄砲的な照れが…。前回は神の前に人は平等である事が論旨でしたが、そこから仲保者キリストによる神と人の和解をひな形に何か考えてみます。

2016/01/17 21:38


以前のレスだけですと「神と人の断絶」という話だけで終わってしまい、「仲保者キリストによる神と人の和解」の話をすっかり書いていませんでした。ですので、今回はフォローとしてダイアリを更新せねばと感じたところです。

そこで一度、私の理解の棚卸しとして、キリスト教の核である、神・罪・救いを通しで書いてみたいと思います。増田から端を発したやり取りの答えというより、一度、切り離された個人のまとめとして書き連ねてみたいと思います。

なお本来的には、これらを教える原点は全て「聖書」であるため、その聖書とは何であるかから証言するべきなのですが、ここはまるっと「キリスト教プロテスタントの世界観」として括弧書きで読んでいただければ幸いです。また、全て根拠となる聖書箇所とセットで出すべきなのですが、今は勢いで書いて、もし情熱があれば後から補足したいと思います。※でも、これは要出典という原則からいくと、かなりギリギリアウトな事をしているのかもしれない。

神について

  • 神はただひとり
    • そして3つの在り方がある。「父なる神」「子たるイエス・キリスト」「人々に宿る聖霊」の3つは、在り方は違うが同時に唯一の神そのもの
  • 天地の創造主
  • 全能であり全知
  • 究極的には「善」であり「愛」である存在
    • 厳密であるとか厳しいというイメージがあるが、悪意は一切持たず、善そのものであり、愛をもって基本的には人を救いたいと思っている
  • 公平であり、罪とは相容れる事が決してない

単に超自然的で、超人間的な存在を「神」と言い表しているのではなく、具体的で人格をお持ちの存在として、いわば大文字の神が存在されると信じています。

人と罪について

人間についての理解を書きたいと思いますが、後半、切っても切り離せないのが人の原罪についてです

  • 人は、神のかたちとして創造された
  • 創造された姿は「よい」ものであった
  • そして自由意思を与えられていた
  • しかし人は神に対する罪を犯したため、罪に堕落した
  • この罪とは、神の制定した正しさから外れたこと
  • そして罪を犯したアダム・エヴァ当人だけではなく、彼らから通常生まれる人類全てがこの罪の性質を持つ事となった
  • 罪がもたらす結果とは、義なる神と引き離されて、滅びること

社会的道徳的な善悪ではなく、神(=善)に背くことそのものが、罪と呼ばれました。
それは神が善であり、その善なる神が定める正しさとは違う方向に向く事、というか拒否と否定だと理解しています。
(ですが「罪の結実としての道徳的悪」への自覚が、遡って原罪への自覚のきっかけになる事も多いと思いますし、私もそうでした

救い、和解について

  • 罪によって滅びにおかれた人が、自分で自分を救う事はできない
  • 神は聖い方で罪そのものは嫌われるが、しかし同時に愛であるため人を救おうと考えている
  • そのため、罪の清めのために救済を計画された
  • 人間の罪の身代わりとして、罪を知らない方を犠牲とする事で贖われる
  • 神は自身の子を完全な人間として、罪の贖いのために遣わした
    • 生まれた子こそイエス・キリストである
    • 受肉したキリストは、肉体を持ち、普通の人と同じように人間の弱さを知っていたが、罪の誘惑に陥らなかった
    • 真に神の子であり、真に人であった
  • キリストは、全ての人の罪の贖いのために、死んで甦った
    • これにより人の罪は全く「赦された」
    • 相変わらず人は不完全であり、神の完全さとは遠いが、キリスト・イエスを通して罪の赦しにおいて神の和解を得る事が出来た

人と神が罪によって断絶されただけで終わったとは考えません。神自らが送ったイエス・キリストの死による贖いによって、人は神との和解を受ける事が出来ました

人の肉体に宿る御霊

  • 先ほど挙げた通り、神の在り方のもう一つは「聖霊
  • 聖霊は人間に宿り、人間に働きかける
  • 聖霊の働きかけによって、人間は罪を自覚する
  • 人間は自分の力によって罪を悔い改めて信仰するのではなく、聖霊の働きによって悔い改めに導かれる

さらには、聖霊なる神が人間に宿っています。人間は自分の力により信仰したり、自分の力によって和解を勝ち取る必要はなく、またやろうとしても行えません。聖霊の働きが先に行われて、それを受け取る事で神を信頼する事が出来るようになります。

最後に、神への応答

  • 私たちは単に「赦された」「一方的に罪を忘れてもらった」だけの者である
  • けれど、赦された「先の生き方」として、キリストを手本として彼に倣うようにありたいと私は願う
  • たとえばそれが兄弟愛
    • 救われたものだからこそ、神の前に互いに等しく、互いに愛を示す
    • しかし人間だからこそ、神の前に互いに等しく罪の根をもっており、お互い様
    • けれども、罪そのものは許容や妥協をする対象ではない

そう、「完全なる神と不完全な人間」という対置の中で、それでも私たちは受肉されたキリストを手本とするという「新たな選択」が示されたと考えます。これは二分法そのものから抜け出したワケではありませんが、不完全で終了ではなく、自分自身の力や努力ではない全く神の恵みと計画により来る世では完成されるのだろうなと思うのです。

私の中のkash06さん
http://anond.hatelabo.jp/20151009002102
ここから先は、一歩も二歩も踏み込んでしまうので、外していたら宜しくないな…と思いつつ、書きます。
先の両増田に現れるような「ウチとソト」「上と下」という感覚の違いや、あるいは相手の立場を読み違える原因はあるのでしょうか? 人として互いに等しいという前提条件を心から土台に据えた上で、「それでも人間の限界をわきまえる」ようなキリスト教徒的な世界観。ここが共有されていないと「人間の限界や領分を戒める自省・自制」の筈の言論が、まるで他者を糾弾するように見えたり、あるいはウチを見下げてソトを利するように思われるのかもしれません。
しかしそれだけではなく、実際我々は不完全な人間であるが故に、中には本当にウチの攻撃になりかねなかったり、自省が過ぎて他者を縛る事も日常的に起こしてしまっているのではないでしょうか。
結局は、常にケース・バイ・ケースで事を見つめて、何を論じているのか、属している宗教についての対話なのか、それとも個人が帯びている政治性についてなのか、知識に関する情報のやり取りなのか、一緒に混ぜないで対話をするしかないと思います。

(そして極々個人的な感想ではあるのですが、平等でフラットな言論空間なら冷静な見極めが出来るのかといえば、私は必ずしもそうは思わず、むしろ「普段ならじっくりなんて読まない話だけど、知り合いの○○さんの手前、ちっとは耳を傾けてみようか」みたいな現実的な抑止力の方が、むしろ歯止めになる事もあるのが人間社会なのかもしれないとも思うのです。しかし、それを言ってしまうなら、なぜ私は本名を隠しkash06を名乗って、このWeb空間でこんな事を書いているのだろうか。いや、書き残す事に個人的な価値と満足を感じているだけですよ。

私信

カッコつけるのは、もうヤメだ。ダラダラと生存報告。(仮)

お勧めの本があったら教えてほしいです…と言いつつ積ん読が山をなしている状態なので、もし教えてもらったとしてもすぐに着手できるわけでなないので極めて言いづらいのですが…

2016/02/01 00:38

id:wattoさまへ
ブコメ感謝いたします。
自分は…実のところ宗教学・キリスト教神学は全く疎く、教会の学びも信仰生活を身に付ける事がメインでしたので、恥ずかしながら現代的な解説書は全く知りません。言ってしまえば、直接には『聖書』自身に学ぶように習いました。しかし、自分の信仰の足下を確かめたく、全くの独学で読んでいるのは『ウェストミンスター信仰基準』、『ジュネーヴ教会信仰問答』、それから少しだけ解説書に突っ込んで『使徒信条講解』(以上、全て新教出版社)辺りになります。

ウェストミンスター信仰基準 (新教新書)

ウェストミンスター信仰基準 (新教新書)

ジュネーヴ教会信仰問答 (新教新書)

ジュネーヴ教会信仰問答 (新教新書)

使徒信条講解 (新教新書)

使徒信条講解 (新教新書)

と、ここまで紹介して、はたと気が付きました。どれも概要書ではあるのですが、どれも教師を前提とした教科書のような気がしてなりません。

ですがまぁ、私たちブログ界の人間が生活の言葉としてネット上のエントリーたちに向かい合う時、高度で上手な現代的意義を提案する書よりも、連綿と語り継がれた共通認識を示す書を足がかりにして、ようやく自分の回答をするくらいが真にリアルで丁度良いような気もしておるのです。
取り急ぎ、こんな弱々しい回答にて失礼いたします。

明けすぎて、申し訳ないほど、おめでとうございます。

さて去年言及いただいた私の中のkash06さんについて、引き続き考えていたのですけど、やっぱり神と人の断絶と和解について中途半端に書き残しても、「なんか、そういう感受性もあるんだ」程度の話になってしまうなぁ…って思ってきたのですよ。

本当は、キリスト教プロテスタント)に於ける「神・罪・救い」の性質について、あるいは「神、人と罪、イエス・キリストと和解」について、信仰者の立場から、箇条書きでも構わないから一度まとめてみる方が良いんじゃないかって思えてきて。けど、こんな基本的な事なら、世の中にいくらでも良書があるし、あるいはインターネット上でもちゃんとした教会の訓練を受けた本職による解説もあるのだから、私が敢えて書く必要なんて…とも思って揺れてるところで。

いま、改めて使徒信条と教理問答に再入門してるので、その理解として書いてもいいのかなぁ…でも、その時間をもっとお仕事に使わなくちゃとも思って、何とも悩み中。

そうです、私が変なkash06です

増田で流行っている「私の中の〜〜」シリーズ、いつも大変楽しく読んでおります。大変納得するものもあれば「こわいよ」以外に何も言えないものもあって、実に「匿名ダイアリー」的なシリーズだと思います。
が、こんなところで、なんと私を取り上げてくださったようで…いやはや、大変恐縮であります。 私の中のkash06さん

だって、kash06ですよ? 聞いた事ございます、こんなID? kashmir108さんならともかく…(しかも06の倍数だ!

単に臆病だから無理なことを言わなかったり、怒りに任せて文字を書いた直後に怖くなって書き直す、愚かではあるが毒にも薬にもならぬ者を覚えてくださり、とても嬉しい限りです。
ありがたい増田でしたので、ぜひ答えられる限りにお答えしたいと思います。

それから「関東のカトリック教区に対する違和感」であるとか「日本のキリスト教反日教に堕したのか?」であるとか、信仰に政治の問題を持ち込んだ記事に毅然と反論するブコメを残したことも忘れられない。
一方で、後者の記事に反論する増田「クリスチャンと反日と左翼についてのクリスチャンとしての見解」のブクマには登場しないので、この増田はkash06さんが書いたんじゃなかろうかとゲスパー。
もし他の人が書いたんだったら、何かブコメを残しそうだと想像しただけで、文体が似てるのか似てないのかは判断つかなかったし他に傍証があるわけでも何でもない。いい加減なことを言って間違ってたらごめんなさい。

恐れ入ります。
さて、こちらの反論増田http://anond.hatelabo.jp/20151009002102ですが…すみません、私ではございません。実は、単純に今知ったというだけの話でして…遅ればせながら、先ほどブクマしたほどです。
なるほど、確かに読めば私も納得する論の組み立てなので、比較的に感性や学んできたポイントが近い方だろうなと思います。ですが、私だとここまで綺麗に論が立たないですね、きっと。文体的にも、あちらの増田ほどの言いきりが出来ないですね。

そもそも、私が文章を拵える時は、拡散をあまり考えず、ただただ自分の書き物として残そうと思っているので、増田を利用する事無く直接この日記で書いたりトラバしたりするのが、ほとんどです。
実は過去に一度だけ、実験的に増田を利用してみた日があるのですが、http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20150628191054 とアノニマスなのに自ら名乗り出るという有様です。
ついでなのでこちらも名乗っておきますが、同日の自分も似たような面があったというか、危うかった時代が長かったので気持..も私です。文体をいじるという意識が無いから、誰がどう読んでも、主張から言い回しまで完全にkash06ですわ、これ。
そんな私の増田歴を全て晒したところで、元増田の増田に話を戻します。(はてなユーザーじゃなきゃ、何言ってんのかわかんないな、まるで

クリスチャンは神と人間という考え方をし、不完全な人間がいかに完全なる神と向き合うかだけを問題にするのだ。神から見たらウチもソトもあるはずないじゃないか!

仰る通りで、趣旨ご理解いただき、誠に感謝します。
とはいえ、私とて本当に単なる一信徒に過ぎないのですから、何も広い知識や深い洞察なんて持ち合わせていないのですけどね。恐らく人口比でクリスチャンなんて珍しいから、珍しいままに許されているのかな、と思う次第です。


そして私自身は何度か書くように私は毒にも薬にもなれない臆病者なので、その範囲で楽しませてもらっております。

書き忘れてた。「増田ブクマカーたちのアイコンを雑に文字で表現する」でアイコン「チロルチョコきなこ味」って書かれてたけど、島原の乱の陣中旗の聖杯と天使ですよね?

あ、そうです!
プロテスタントのくせに、無理矢理に切支丹ぶりやがって…という話でございますが、一応、はてなを始めた頃はまだ大学を卒業して1年ちょっと。せっかく日本史を専攻してたのだから、歴史クラスタっぽいアイコンを! と思って掲げた気がします。

ブコメ方面にもお答えすると…謎と言われるのは光栄かもしれません。Twitter経由文学フリマ方面の友人たちには、数年来の仲間になっても本名を漏らさなかったり…割とコントロール好きです。困ったときには、ギリギリでストライクになるアウトローを必ず投げられるように、という桑田真澄さんの教えをインターネットでも常に守り通したいと願うほど、桑田真澄さんのネタが好きです。違った、コントロール大切ですよね。

そうそう、はしゃがないなんて事も無くて、中日ドラゴンズネタとか90年代ゲームネタだと、結構はしゃいでる気がします!

恥ずかしいほどまともに返信を書いてしまいましたが、はてなで出会う文章には、いつも多くの知識と知恵を教えてもらって感謝しています。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

私がまだクリスチャンでもなくたまに教会へ遊びに行くだけの小学生だった当時の教会学校で、先生をされていたご婦人が、先日、高齢のために天に召された。

病ではなく最期は本当に安らかだったと聞いて、悲しみの中でも主に感謝しつつ、結局、皆で祈りながら少し泣いてしまった。

今年だけで既に5件の葬儀に出ている。ある時は遺族として、ある時は会社の後輩として。30代中盤とはそういう時の気遣いも自然にできる事が必要な年齢なのだろうな。


さて、私が知り得る周囲のクリスチャンの間には「天国の希望」という言葉があり、使われることも多い。通例、「救い」について究極的な希望を述べる時に「私たちには天国に希望がある」みたいな言い方をする。もちろん、文字通りに自分の死後への希望があって、転じて今の人生への肯定に繋がる面もあるのだろうけど、この希望は残された者たちにこそ強力な希望となっているのも確かだ。

私には希望がある。正しくは、私に初めから内在しているのでもなければ、私の努力、犠牲、感性によって得たものでもなく、渡された希望をそのまま受け取っている。この希望は全ての人に配られていて、誰でも受け取ることが出来るとも信じている。だから、あなたの手元にも希望は届けられているとも、受け取り得るとも言える。資格の問題ではなく、意思の自由だ。私が世を去った時、もしも惜しんでくれるような方がいるのなら、願わくば同時に「でもkash06ですら、希望が渡されてるんだよな」と思ってもらえるならば、嬉しい事だ。

全ての人に希望の可能性はある以上、人が最期の時に神とどのような対話をしたのか、そして神がその人をどのように取り扱われるか、私たちが知り得る事ではなく、また論ずる領域にはない。

だから私は、他者の希望の有無を断じる事は一切しないが、一方で希望を前にして相互に慰められる事も確かにあると思っている。


私が持つ天国の希望は、私自身が持つ希望であり、出来れば誰かへの慰めであって欲しい。いや、誰かにとっては、かえって哀れみの対象なのかもしれない。

まぁ、希望、希望と連呼するが、抽象的な言葉に酔って内実を考えない愚かな私の性質を知っていれば、誰も信用しないかもしれない。特に仕事関係の甘さを知っている人ならば。

だがそれでも、慰めなく生きていけるほど強くはないよ、私は。


先生、ありがとうございました。必ず、また会いましょう。

私にとっては遠い日かもしれないですが、あなたにとってはきっと遠くお感じにならないでしょう。