他人様の話題をネタに、一人自分語りします。

自分向けのチラシの裏です。コート菊62.5kg(4/1)くらいのチラシです。
…って、(4/1)じゃ両面印刷だから裏に書けないジャン。

http://d.hatena.ne.jp/graylittle/20060618/p1
や、やられたぜ…こんなカッコイイ日記、私も書きたかったよ。。。*1

毎週の様に「…聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれ…」と暗誦しているのに、さほどのことまで考えてなかった愚か者。
というか、キリスト教の肝としては「復活」が大きいから、生誕まで遡って理由だとかを考えたことなかったのかな。

こんな事を書くと後付けみたいで恥ずかしいけど、そーさねー、自分の中で何が引っ掛かっていたのかヒントになったかもしれない。「愛すべき人(や物事や世界*2)しか愛せない」…もとい「愛すべき人(や物事や世界)しか欲求できない」(多分「愛」ではない)という、自分の感情の不確かさが嫌いだったんだと思うよ、多分。だから学生の時だったか「こんな感情が確かかどうかわからないけど」って何度か言ってたんだと思う。何故だか正しいニュアンスで理解していただけなくて「ほんとの気持ちがよくわからない」的に解釈されてたんだけど、そうじゃなくて、自分の感情というモノ自体が、何かの根拠になる様な確かさを有してるのかね?という不確かさだったんだけどさ。今考えれば、じゃあ自分の感情以外の外部的な理由が有ればいいのかっていうと、それも何とも言えないけど。
で、話は戻ると。
「自分が愛したい*3と思う対象しかアイ*4せない」という自分の限界な感情そのものが、「自分が誰かを選ばないので、同じように自分も選ばれない」に繋がる感情なんだと思っていました。だから自分の発してるアイするという感情そのものが自己否定的な、不安定な、嫌なものにしか思えなくなる、みたいな。
強引に非モテネタに繋げるなら、自分のスタンスの場合だと、まぁ誰かを好きというのは勝手にすればいいのだけど、誰かを選ばないと言うのは自分を選ばないのと同義なんだと感じてしまう、そんなねじ曲がり方をしてるんだと思います。ちょっと前は気づいてなかったけど、今は、自分の考え方が健全な人から見ればねじ曲がって見えてるんだろうな、という事には気づきましたが。

…まぁ、ここまで書いてすぐ分かる事ですが、全ての人を等しく、それも個人的に愛するだなんて、キリストにしか出来ないワケですよね。

それにも拘わらず、誰かを選べない自分は、じゃあ、他の人を選ぶなんてありえないし、それなので「この世の全員を選びません」か「何があってもこの世の全員を選びます」の間違った二者択一状態になってた事もありましたねぇ。それも、こんな考え方をしてるだなんて自分でも気づかないまま。
コレを言い出すと、「またkash06は、グズグズに拡大解釈してるよ」と思われるかも知れませんが、自分にとって「非モテネタ」なんてのは「異性からどうこう」なんて事より、単純に友人でも縁者でも、いや自分からでもいいから、選ばれるのか排除されるのか、という問題なんです。だから、ある意味では別に「非モテ」じゃなくても全然構わない。ただ、頭が悪いので「社会的に排除されている」とかいう議論についていけないだけで、でも、「はじかれるかどうか」という根本は大事にしたいんです。敢えて突き放して言えば、モテ云々なんてのは上部構造の話で、生存するとか経済とか、そういうドロドロの下部構造の方が気掛かりです。でも今は基督者なので、さらに掘れば「救われているかどうか」の方が気掛かり……なハズです。ハズだよね? まぁ、もちろん経済的必要が満たされても、精神が満たされない状態を幸福だなんて言えるはずはないので、そこはバイクの両輪みたいな感じかもしれません。…普通「両輪」って言ったら、バイクじゃなくて自転車か?

で、結局自分は、あんまりモノを考えられない中学時代に、愛とかどうとかは考えず、ただ自分の罪深さみたいなのを漠然と感じて、それじゃぁ…みたいな感覚でクリスチャンになったワケで。何故だろうか、自分がダメなのは前からわかってたけど、不思議なことに「この人は、どうでもいい自分の為にわざわざ死んでくれたんだね」「信じるって心境はわからないけど、多分、この方向で救われるのかな」「せっかくだから、俺はこの福音を選ぶぜ!*5」と、やってみたワケです。どうやら、その「やってみた」というか、いや「信じてみよう」という「決めた」という分岐点こそが「信じる」という事だったみたいですね。あの頃は「宗教的な心境*6」に到って「信じた」のだと思ってたけど、ありがたいことに、そんな高尚なところに辿り着けない私も、この「幼く拙い決定」によって救われていたようです。
自分で自分を選べない、越えられない、愚衆な自分には、それでも救い入れようとする「神の愛」は、絶対に有った方が良い気がします。それをルサンチマンと呼ぶのならば、私は喜んでそれを拾うし、それでよい。

 非モテ男の救い主。何ら愛に値しない30代童貞(その他もろもろ)を愛し、妄想から生まれた。――――。

 あはは。それって、とっくにいるじゃん。

 エロゲキャラじゃん。

 二次元からの愛を信じましょう。二次元の救いを信じましょう。――電波男そのまんま。薄気味悪いほどうり二つ。

どうも。基督者でなかったら、間違いなく真性エロゲオタになってたような気がする*7ダメ人間が反応。

えろかろうが、えろくなかろうが、二次元の方ですが。うーん、既に「神 兼 古代ヘブライ人30代男性(ユダヤ部屋・ガリラヤ出身) 兼 聖霊」ことキリスト・イエスが罪の身代わりになってくれてるのと違って、今から「俺の罪を肩代わりしろっ!」というのは酷な話だよなぁ…というのが微妙にあると思います。

あ。
関係ないけど、こんな事も考えたことあったなぁ…。
補足メモ - カッコつけるのは、もうヤメだ。ダラダラと生存報告。(仮)

アイドル親衛隊=「ローマンカトリック的な教会(祭司)の権威を通しての『救い』」、えろげおた二次元電波男系?*1=「プロテスタント的な万人祭司としての個人と『救い』との邂逅」 …って書くと、はてなっぽいよね

ほらプロテスタントって、多少、強制的にでも「一人で」神の前に立たせられるイメージあるじゃないですか。で、さらに「万人祭司制」と言ったら、一人一人が直に神の恩寵に預かるというのか、晩餐(聖餐)も受洗者が各々で吟味して受け取れるし。
それで「神はお一人」なんだけど、同時に「私に個人的に立ち現れる」し、同時に他の人にもあらわれてるって感じがさ。「出典であるメインストーリーこそ一本」であるけど、同時に「私には私だけの……*8がいて」、誰かには誰かの……*9がいて、しかもそれが「ただ私だけを愛してくれる」*n*10という「自分だけの唯一性」と「同時多発的」な感じが「神の遍在性*11」っぽいじゃないですか。
で、カトリックはよくわからないんですけど。ローマンカトリックっていう「一つの山」が、こう、「アイドル親衛隊」っぽいじゃないですか。生身のアイドルの場合、どんなに自分だけの内面化をしようとしても、結局コンサートやメディアを通すことでふれ合うのだから、その度に「みんなの」っていう感覚が蘇るんじゃないかなぁ…と。(ものすごい温度差を内包しながら「我々の」という感覚を持ち続けるというのも、カトリックのよさげな点とは思いますよ)

ただ、まぁ。
結局のところ、ほら、よく言われる所のIdoll=偶像ってなわけで、偶像礼拝になっちゃいかんよー、と言われてしまうのがオチかもしれません。リアル知人には口が裂けても「神様って二次元アイドルみたいだよねー」なんて言わないッスよ!!


(追記)
http://d.hatena.ne.jp/graylittle/20060620/p1
何と言いましょうか。私は「信じる側に心を置いた」事にしました。

*1:「カッコつけるのは、もうヤメだ。」ってタイトルで書いてるのに

*2:関係ないけど、さだまさしの歌にある「とても小さなこの町を僕は愛して暮らした、砂糖菓子みたいな家や、草花や、人や、その言葉を…」という歌詞が思い出されて仕方ないです

*3:アガペーなどでなく「価値を愛する」エロースみたいな感じ? フィロスかもしれないけど

*4:多分、エロースの愛にすら満たない感情なので、「アイを叫んだけもの」っぽく

*5:なんで最後にデス様…

*6:悟りを開くみたいな?

*7:気がするだけの、不確定な仮定ですよっ!

*8:思い思いの二次元アイドルの名前を入れてください。特に浮かばない? そうだなぁ、なら、ひとまず「先輩」と仮称してはいかがですか? しっくりこないですか、、、あぁ、ならば「ちゃん様」は如何でしょう? このしたぼく感がたまらないですね。え、「お前のことを理解してあげられる俺臭」がキツイ? 確かに「神」に対してその態度はよくないですね… ということで、神とアイドルはそっくりそのままにはならないと思ってます

*9:仮に、仮にだよ、じゃあ「ちーちゃん」って呼んであげてみてはどうでしょう、まぁ、多少…勇気がいるかもしれませんが

*10:n=信者

*11:正しい意味で「ユビキタス」だ!