敢えて、間違えても良い

さて、今年の抱負ですが…
「敢えて、間違えても良い」これにしました。

文節的には「敢えて間違える」ではなく「間違えても良い」事に対して、「敢えて」の肯定。といっても「間違える」事をその場で俯瞰的にわかっていても…という話ではなく、どちらかといえば、何が何でも自己肯定するぞという意気込みのような、予防線のような、そういう「敢えて」です。

本当は何も「敢えて」じゃなくて、ガチで失敗したとしても、最初に「間違って良い」という設定をしておいた為に、そのガチ失敗すら当初の許容の範囲内であったと後付けで肯定できるシステムです。とても再帰的な振る舞いで笑っちゃいますね。

考えようによっては、ゼロ年代が終わり新しい10年代が始まった日にこんな事を言い出す事自体、10年遅れの決断主義みたいでとても恥ずかしい話ではありますが、あまり大きい世界観がどうとかって話はよくわからないので単純に「仕事を早く終わらせて適当に帰りたい」って程度の話だと思っていただければ良いかな、と思います。

動物化した妄想データベース的には「決められない僕を、一撃で狂わせてくれた君」を欲望する事について完全に断念することを自己宣言みたいな。ひとりで言ってろ、って感じですが。
「選択の拒否」=「人類補完計画」の肯定、をずっと望み叫んでいたわけですが、そんな甘い甘い妄想は心の奥底にしまっておくとして。かといって「僕が選ぶんだ」と無理に気負うワケでもなく、あと何だ、今の若い子みたいに「選ぶって、当たり前ジャン? どれが一番マシかな」というほど冷静でもなく。

ただ、人と人が、人と集団が、向き合って意見を、考えを、生き方をすり合わせるのなら、それ以前にその俎上にあげるべき提案を用意しなくてはならないワケだとは思いまして。かといって、完全に解け合う(人類補完計画)ことは諦めたし、自分の決断を元に洗脳合戦を戦う(バトルロワイヤルな決断主義)ことを望んでいるワケではない。私も変わってしまうかもしれないし、あなたをも変えてしまうかもしれない。それでも始めようか。『未来にkissを』であるし「第4章 手をとりあって」であるかもしれない。

信仰的に、私が従うことを辞めてしまうのではありません。かといって、「従うこと」を「私が選ぶ」のでもなく。私が従うことが既に定められている事を、私が認めてそれを選ぶのかなと思います。
カルヴァンの予定説とは「私が選ぶ」という自己決断を退ける為のものであって、二重予定説のような「既に選ばれている人が決まっているのなら、選ばれてない人も決まっている」という考えは、そこまで人が拡大して考えたり心配したりする必要のない範疇の問題だと思うので、私はそこまでは支持できません)
そのたとえはどうかと思いますが、構造的には『未来にkissを』の式子シナリオのような。いや、『涼宮ハルヒの憂鬱』でのキョン、を通して読者側に受け取らせた「既定されたシナリオ、に流されるのではなく、それを『選ぶ』」という構造とほとんど同じな感じでしょうか。


というつまらない解説はともかく。
とりあえず、長々と文章を書いたら気持ちよかったです。