読み捨てるばかりの本を前にして、ふと思った

この前「ノリでしか本を読めない」(大意)みたいな嘆き(?)を吐いてしまいましたが。

本にしろ、ネット上での言説にしろ、それを読む動機として、もちろん「自分の知らないことを知って楽しい」という素朴で洗練されない好奇心も大きいのですが、もう一方で「あるある、あぁ、わかる」という共感モードを元にした、実感の裏付け……というより単なる共感ゲーム(?)をしてるのではないかと、最近どうも思うのです。自分の実感する世界を説明する言葉を探すくらいならまだいいのですが、共感ゲームというのか、安易な繋がりゲームみたいな面があるのが、まだまだ愚かしいです。特に自分と似たような属性を持つ人を、いくらでも捜せるネット上での言説漁りの場合なんかは特に…。

ところで、社会人になってからの方が確実に買う本が増えたのですが、単純に「趣味・嗜好・意識が変わった」「財政的余裕が出来た」というのに加えて、ある種の反動(?)があるような気がします。「お前の考えは全くなってない」と自分で思わされる事があればあるほど、より私が日々感じるような感覚を代弁してくれるような本を探してしまうのでしょうか。いや、別に私(と似たような属性ターゲット)に「そうだよねー」と言わせたい為に書かれているのではなく、私がそのような読み方をしてしまっているだけかもしれませんけどね*1

借りた言葉で自分を位置づけようとするのも仕方ないとはいえ、この実感ベースに頼りっぱなしで一番危ないのが、自分が実感出来ない世界こそ、むしろ私が知るべき世界かもしれない、ということですか。とりあえず何かを叩いて溜飲を下げるだけの「オヤジ番組、オヤジ本」*2を見るたびに何とも言えない気分*3になるのですが、
もし私が実感と共感の世界だけに身を置いてしまうのならば、ただ同じ事をしているのかもしれません…。ハッキリ言って、未知なる他者・いわゆるマイノリティへの理解を閉ざした世界*4には、身を置きたくないですが、私自身がかなり狭い世界の住人で、やはり更なる努力と好奇心が必要なのでしょうか。

まぁ、全ての世界を必ずしも許容する必要はないワケですし*5、まだ若いウチに気を付けておきたいものです*6

(追記)
と、いいつつも、自分の限界って結構狭いからねぇ…。
斉藤環氏の『「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論』(ISBN:4121501748)の一節じゃないですが、「理解出来ないなら口を出すな」というのもありかもしれないです。逃げと言われようとも、わからないのに口を出すよりかは……でも、あまりに世に無関心すぎるのも危険だろうか……。

*1:それはそれでマイワールドすぎて危険

*2:ちょっと世の健全なオヤジさんに失礼な名称になってしまったなぁ……何かいいネーミングはないものか

*3:おそらく軽蔑も含まれてる

*4:よりによって、それが案外メジャーな世界だったりしませんか? スポーツ紙・週刊誌や、テレビの評論家・評論家気取りの種々の人間、を見ると、そう思わずにはいられないです…

*5:というか、それは矛盾か限りない相対主義

*6:どこで読んだろうか…「革新気取りの生活保守」みたいな妙に硬直化した偽者にならないように